12

 先生はゆっくりとわたしの名前を呼んだ。怒りも悲しみも入っていない、いっそおだやかなくらいの声に聞こえた。

 先生は何を考えているんだろう? わたしのことが憎くないんだろうか。わたしは急にそんなことが心配になってしまう。お父さんはもう何度も浮気をしてきた。そのたびにお母さんが怒るから謝って、でもしばらくするとまたよその女の人のところに行っていた。もしもそういう関係の女の人に、お父さんとの赤ちゃんができていたら――うちなんかとっくにバラバラだけど、それでもわたしはきっと辛かったと思う。なのに先生は今、表情はとても静かで、声も落ち着いていて、

「わたしの有澤ありさわって苗字ね、母の旧姓なの」

 と続けた。

「でも、産まれたときは泉って苗字だった。泉亜希。泉さんの腹違いのお姉さんってことになるね。自分の下の名前が嫌いだから、あきちゃんよりもありちゃんって呼ばれる方がわたしは好きだけど」

 わたしは先生の顔をぼんやりと見つめていた。わたしの中で、先生はいつも「ありちゃん先生」だった。なのに、急に「お姉さんだよ」って言われても信じられない。ぼーっとしているわたしを見て、先生は急にくすくす笑った。

「ふふ、不思議だね。泉さん、わたしに似てる。顔とかお父さん似って言われない? それに何でだろうね、顔だけじゃなくて、ちょっとした動きとか歩き方とか、言葉選びとかそういうところも似てるの。『ふつうの子です』みたいな顔してて、あんまり目立たないようにしてるところも、友達と問題を起こしたりはしないけど、特別仲のいい子がいないところも似てる。なんていうか、孤独なんだよね。孤独で、いつもなんとなく不安なの」

 似ているところをひとつひとつ言われるたびに、胸の中がざわざわした。こんなときじゃなければ、ありちゃん先生とわたしに共通点があるって話で盛り上がって、うれしい気持ちになれていたかもしれないのに。

 先生はまたゆっくり「泉さん」とわたしを呼ぶ。

「まだ話したいことが色々あるんだ。聞いててね」


 十四年前の夏。

 ありちゃん先生は有澤って苗字になったばかりで、「あるひと」に頼まれて、小さく分けた厄をあちこちに置いてくるアルバイトをしていた。

 厄は百円玉にくっつけられていて、先生――亜希さんは、そのお金をあちこちのお店や自販機で使ったり、その辺に落としたりしていたらしい。厄がくっついた百円玉は、さわるとネチョッという感じの手ざわりがして、手放す瞬間ちょっとした安心感があるのだという。よくないものを手放すことへの安心。「いつもなんとなく不安」だった亜希さんは、お金だけじゃなくて、この安心感がほしくて仕事を続けた。

 それとほとんど同時に、厄を集めて武器にすることも試した。亜希さんに仕事を頼んでいた「あるひと」は、厄を百円玉ではなく、最初はなにかのお札に込めて、亜希さんに渡していた。

「それ、どこに貼ってもいいよ」

 その言葉にしたがって、亜希さんはそれを、叔母さんの家のどこかにこっそり貼りつけた。そして、それまで何の問題もない一家みたいに見えていた叔母さんの家がぐずぐずに壊れ始めるのを、たぶん、今日みたいな冷たい目でずっと見つめていた。叔母さん夫婦はささいなことでけんかをするようになって、結局離婚したらしい。叔父さんが従兄弟たちを引き取って、町から出て行ってしまった。叔母さんも少ししてどこかに行ってしまい、どうしているのかわからない。建てたばかりの家は売りに出されたけど、長く住めるひとはいなかったらしい。

 でも、それは実験のごく初期で、だからまだ被害が少ない方だった。もっと後の段階で同じことをされていたら、だれかが――おそらくはまだ小さかった亜希さんの従弟から、命を落としていたかもしれない。


「――先生たちさ、色々試したよ。いろんなものに厄を乗っけて、それを置き去りにしてきた。で、そのうちお金とか御札じゃなくて、違うものに乗せた方がいいってわかったの。完成するまでに時間はかかるけど、完成したら強いんだ。さっきいたやつなんか、話にならないくらい」

 先生はそう言って、廊下をちらりと見た。

 いつのまにか人影は消えていた。

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