新しい学校と黒い影と、そのほか色んなこと
01
またあいつがこっちを見ている。
「泉ちゃん?」
急に声をかけられて、わたしは我に返った。ぱっと目に入った両腕の、セーラー服の紺色はまだ見なれない。転校してそこそこ日にちが経ったのに、たとえば夢に出てくる風景なんか、まだ前の学校のままだ。
「次移動だよ。理科室」
隣に座っている女の子――矢沢さんが、教科書とファイルと筆箱を抱えて立ち上がる。わたしがあんまりぼーっとしているから、声をかけてくれたらしい。
矢沢さんは親切な子で、転校してきた頃からわたしを気づかってくれた。下の名前は梓で、たまたま同じクラスに三人もいる。だから矢沢さんとか、ザワさんとか、ねえさんって呼ばれていることが多い。わたしも下の名前はカブりがいるので、呼ばれるときは大抵「泉ちゃん」だ。
「泉ちゃん、最近なんかぼやーっとしてない? 理科室、いっしょに行く?」
「うーん、ごめん。大丈夫。でもいっしょに行く」
「うむ、それがよい」
実際ちょっとあわててファイルを忘れそうになったから、矢沢さんが声をかけてくれて助かった。
近ごろ、気が散ることが多い。夏休みの間に40℃くらいの高熱が出て何日か寝たきりになり、一応無事に下がってよかったけど、それからちょっと変だ。
まず、なんでそんな熱を出したのか原因がわからない。それに熱が下がったあとも時々頭がぼーっとして、なんだか以前の自分とは何かが変わってしまったみたいだった。
大きな病院で色々検査をしたけど、結局後遺症みたいなものは何もなかったらしい。でも、やっぱりちょっとおかしい。なんていうか、脳みそにオブラートみたいな薄い紙が貼りついているような気がするし、何かわからないけど大事なことを忘れてしまったような感じもする。お母さんなんか、「熱を出す前と後で、なんだか人が変わったみたい」って、気味悪そうに言ったくらいだ。
おまけに、夏の間に急に引っ越したり転校したりすることになって、すごくバタバタした。新しい街に引っ越してからもう三ヶ月も経ったのに、まだ気持ちが落ち着かない。新しい中学校の制服も見なれないままだ。
とはいえ、運よくいいひとばっかりのクラスに入ることができたから、学校は楽しい。全員初対面だから、クラスメイトに「性格変わった?」なんてつっこまれなくて済むし。
学校に通って、にぎやかなところで過ごしているうちに、だんだんぼーっとする時間は減ってきた。脳みそに貼りついていたオブラートが溶けてきたみたいだった。まだ問題はあるけど、それはだれにも言わないようにしている。
わたしはなるべく「普通」でいたい。
「泉ちゃんさぁ。さっき、なんか見てなかった?」
矢沢さんが言った。思わずぎょっとして、それ相応の顔で彼女を見てしまう。
「な、なに?」
「やー、なんか窓の方見てぼーっとしてるように見えたから、何かいたのかな? と思って」
なんだ。わたしはほっと胸をなでおろす。そこまで様子がおかしかったわけじゃないみたいだ。
「ううん、別に。なんかぼーっとしちゃってて」
そう答えておくことにする。当たりさわりのない、たぶんバレもしないだろうなって小さな嘘をつく。
さっきから、何かがこっちを見ている。
熱が下がったあとから、おかしなものがよく見えるようになった。
黒い糸をぐちゃぐちゃ丸めて作った黒い影みたいなやつが、壁ぎわからこっちを見ている。
顔は真っ黒で、目も鼻も口もないのに、こっちを見ていることだけはわかるのだ。
あれ自体は前からいた。あちこちにいて、別に何かするわけじゃない。目を合わせないようにして、放っておけばいいだけのものだ。いやなものだけど、ただそれだけ。
でも最近、あれはわたしを見るようになった。
「泉ちゃん、なんかまた家のことで悩みとかあったら言いなよ。私でよければ聞くから。何かできるわけじゃないけど、話しちゃった方が楽になることもあるからさ」
って、矢沢さんはやっぱり親切だ。
「うん、ありがとう。なんかあったらそうする」
わたしはお礼を言って、前を向く。
廊下にいる黒いものを無視して、そいつの顔なんか絶対に見ないようにしながら、理科室をめざした。
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