18
また叩かれると思って、わたしはじっと目を閉じたまま待っていた。でも、いつまで経っても衝撃はなかった。
おそるおそる目を開けると、妙にぐにゃっとした姿勢で立っている一ノ瀬さんが見えた。
その後ろに、咲坂さんが立っている。
いつ来たのか全然わからなかった。昨日乗っていた白い車も、いつの間にかそばに停まっている。
「しーっ、だめだよ。子供を殴っちゃだめ」
咲坂さんは、一ノ瀬さんの後ろから肩を抱いて、静かに話しかけている。
「あなた、優しいママになりたいんだよね? だったら子供を殴っちゃだめ。よその子でもだめだよ。その代わり車に乗って、私と楽しいドライブをしましょう。いい? いいよね」
一ノ瀬さんは咲坂さんの声にあわせて、何度もうなずいている。急になにも考えられなくなったみたいな、変な表情をしている。
咲坂さんは車の後部座席を開け、一ノ瀬さんを案内して座席に座らせると、スライドドアを閉めた。すごくなめらかで迷いのない、うっかり見とれてしまうような動きだった。
「さて亜希ちゃん、また会えてよかったね」
咲坂さんはわたしを振り返って、にっこりと笑った。
「ごめんね、お話ししてるところに割って入って。あれ? ここのとこケガしてる。大丈夫?」
咲坂さんの指先が、わたしの目の下、さっきできたばかりの傷を指さす。そのほっそりとした指先の先っぽまで、きっちりときれいな人だと思った。
「ちゃんと病院に行ったほうがいいよ。痕が残ったらもったいないもん」
咲坂さんの声を聞いているうちに、だんだん頭の芯がぼんやりして、ぐにゃぐにゃになってきた。あのさ、と切り出した咲坂さんの声が、脳にしみ込んでいくような気がする。
「――私も亜希ちゃんとお話ししたいんだよね。いい? いいよね」
そう言われて、何て答えたのか覚えていない。気がつくと、わたしはいつの間にか咲坂さんの車の助手席に乗っていた。見慣れない道を走っている。どこにいくのかわからなくて、どうしようかと思っていると、「大丈夫、あとでちゃんとおうちに届けてあげるから」と言われた。
「それよりもさ、ねぇ。亜希ちゃん、話があるの。大事な話だよ。いい? ――」
それは。
それは中学一年生の夏のことだった。
わたしは何のとりえもない、どこにでもいるようなつまんない子どもだった。どうでもいい凡ミスでいつか死んじゃうような気がして、いつも不安がっていたけど、そのことを一生懸命隠そうとしていた。
そうやって、気持ちを隠すのに慣れすぎていたのかもしれない。理不尽なことが起きても怒り方がわからなくて、わたしはそのへんでうずくまって、じっと嵐が過ぎるのを待っていた。
それで。
「亜希ちゃん、私のお手伝いをしてくれない?」
ハンドルをにぎりながら、咲坂さんが言った。一ノ瀬さんは後部座席で目をとじて、ゆらゆら体を揺らしている。
「……つまりさ、賀古ちゃんがやっているようなことを、亜希ちゃんもやってくれないかなって思ってるのね。無理にじゃなくていいよ。たぶんだんだん難しくなるし、守ってもらう約束も多くなる。でもお金はちゃんと払うし、やりがいもある。人の役に立つことだし……そうだ、賀古ちゃんにもまた会えるよ」
賀古さんに会える。急展開だった。ポケットの中の百円玉をにぎりしめて、うれしさとか驚きとかで顔が赤くなるのをがまんしながら、
「なんでわたしなんですか?」
と聞いた。大人のひとに、こんなふうに頼まれごとをされたことはたぶん、一度もなかった。だから嬉しかったけど、不安だった。なんでわたしに頼まなきゃならないのか本当に不思議で、聞かずにはいられなかった。
「なんとなくかなぁ」
咲坂さんはあっさり答えた。「偶然会ったから。私が亜希ちゃんのことをたまたま気に入ったから。でもこういうのって意外と大切なんだよ? 偶然とかたまたまとか、タイミングっていうのはさぁ」
たとえば。
わたしと賀古さんが、たまたま百円玉をはさんで出会ったみたいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます