17

 一瞬頭の中をよぎったのは賀古さんで、でもそんなわけないなと思い直して、次に浮かんだのは咲坂さんだった。とにかく女の人だという直感があったけれど、振り返ってみると、そこに立っていたのは昨日うちに来た女の人だった。ああ、お父さんの不倫相手の、と思った瞬間、お腹がぎゅっと痛くなった。

「誠一さんの娘さんだよね」

 女の人は「一ノ瀬です」と名乗った。顔色が悪い。青いっていうより黒い感じで、この人も具合が悪いのかもしれない、と思った。そういえばお腹に赤ちゃんがいるんだっけ。お父さんの子どもなんだろうな。そんなことも考えて、またお腹が痛くなりそうだったから深く考えるのをやめた。

「急にごめんね。私のこと、誰かわかる? あきちゃんのお父さんとお付き合いしてるの」

 こわばった顔でそう言われた。

 わたしが何も返さないせいか、一ノ瀬さんはぎゅっとまゆをひそめた。この人がふだんどんな顔をしてるかなんて知らないけど、とにかく不愉快そうな表情だってことはわかった。

 その顔のまま、一ノ瀬さんは「あきちゃんだよね」とわたしの名前を呼んだ。どうやって知ったんだろう。お父さんから聞いたのかもしれない。

「何か用ですか」

 とにかく、完全に逃げるタイミングを逃していたから、そう聞くしかなかった。それに正直、ちょっと話してみたかった。うちを今みたいな状態にしたのはどんな人なのか、わたしに何を伝えたいのか、知りたい気持ちがあったのだ。でも、

「お母さんに、早く離婚してって伝えてくれないかな」

 って言われて、すぐに後悔した。

「私たち、赤ちゃんが産まれるまえに結婚したいの。あきちゃんのお母さんが早く離婚してくれないと赤ちゃんが先に産まれちゃう」

 一ノ瀬さんはそう言った。目に涙を浮かべて、自分が悪いなんてことちっとも考えてなさそうな顔だった。

(やっぱり走って逃げればよかったかも)

 そんなことを今更考えながら、辺りをちらっと見てみた。人通りはない。近道をしようとして裏道をぬけてきたことを後悔した。だれかわたしのことを知ってる人が通らないかな、と思ったけど、期待できなさそうだ。

「ねぇ、いいよね? あきちゃんは賢い子だって、誠一さんが言ってたよ」

 一ノ瀬さんの顔が近づいてきた。おばあちゃん家のタンスみたいな口臭がした。「賢い子ならわかるよね? 両親そろってた方がこの子のためにいいでしょ。お願い、すぐに離婚してってお母さんに頼んでよ」

 怒りとか悲しみとかを通り越して、呆れてしまった。

 なんでこの人、こんなことをわたしに頼もうと思ったんだろう? お父さんはなんでこんな人と新しい人生やり直そうと思ったんだろう。なんでわたしとお母さんを捨てていっていいと思ったんだろう。

(かわいそうに、あき、産まれてきてかわいそう)

 お母さんの声が、急に頭の中でぐるぐる回り始めた。

 そのとき、急に肩をぎゅっとつかまれた。驚いたのと痛かったのとで、わたしは思わず一ノ瀬さんを押し返してしまった。

「ひどい。なんてことするの」

 自分から手を出したくせに、一ノ瀬さんはまるで自分が一方的に被害者みたいな顔でそう言った。昨日玄関で聞いた甲高い声が耳に刺さった。

「お腹に赤ちゃんがいるのに! なんでそんなひどいことができるの!?」

 だって。

「あはははは」

 わたしはつい笑ってしまった。

 なんでそんなひどいことができるの、だって。よくそんなことが言えるな、この人。一ノ瀬さんは確かに美人かもしれない。か弱そうで助けてあげたくなるような人かもしれない。でももうちょっとどうにかならなかったのかなって考えて、笑えてきてしまった。お父さん、こんな人と「人生やり直す」って言って家を出て行ったんだ。

「何で笑ってんのよ!」

 ゴリッという骨を擦るような音がして、左目の下に痛みが走った。手で顔を叩かれたにしては痛いなと思ったら、ネイルストーンが当たったらしい。なんでそんなキラキラした爪してモメに来たんだろうと思っただけでも、なぜかどうしようもなくおかしい。

 ばかみたい。

 一ノ瀬さんがもう一度手を振り上げるのが見えた。わたしは目をつぶった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る