16

「あきちゃんはさぁ、もっと怒ったりしていいと思うよ」

 ふすまの向こうから、颯ちゃんの声が聞こえてきた。


 玄関でお母さんと女の人が話をしている間に、おばあちゃんが叔母さんの家に電話をしたらしい。勝手口(寝るときと出かけるとき以外カギは基本開けっ放しだ)からこっそり入って来た颯ちゃんに引っ張り出されて、わたしは叔母さんの家にやってきた。と言ってもふつうに「お邪魔します」って感じじゃなくて――つまり避難なのだった。

 新しい家はまだ中を作っている最中だから、叔母さんたちはまだ、古い家に住んでいる。

「ごめんねぇ、今客間が使えなくって。なにかとガラクタが出て、ゴミ置き場みたいになっちゃってるのよ」

 そう言いながら、叔母さんは物置に布団をしいてくれた。「もう颯太といっしょに寝ればいい、って年じゃないもんね」

 颯ちゃんはともかく、ひとりになれるのがうれしくて、ほっとした。

 また熱が上がってきた。わたしが寝ているから、颯ちゃんはふすま一枚へだてたところから入ってこない。ちょっとだけ開いたすきまから声が聞こえるだけだ。時々キャーッと高い声が話に割って入ってくる。颯ちゃんにはれんちゃんという年の離れた弟がいて、お兄ちゃんにかまってもらいたがるのだ。

「あきちゃんとこさぁ、伯母さんも大変だとは思うけど、あきちゃんのこと全然考えられてないじゃん。伯父さんはもちろん最低だけど」

「……そうだね」

 さっきから頭がぼんやりして、わたしは適当なあいづちを打ってばかりだ。そうか、もっと怒ったりしていいのか。そういう颯ちゃんの方が、わたしには怒っているように思える。

「とにかくさぁ、あきちゃん、今夜はうちに泊まってった方がいいよ。さっき母さんが電話かけてたけど、相手の女のひと全然帰らないらしいよ。マジでさぁ、具合悪いひとがいていい環境じゃないと思うんだよな。父さんも母さんも、あきちゃんだったら全然何泊もしてっていいって言ってたし。おいこら蓮、この部屋は入っちゃだめ」

 キャーッと小さな子の声が聞こえる。颯ちゃんは弟の面倒もよくみるらしい。

「お世話になっちゃっていいのかなぁ」

「いいのいいの、親がそう言ってんだから。新しい家が建ったら、今度はちゃんと客間ができるから、あきちゃんそこ使うといいよ」

 ちょっと笑ってしまった。「そんなずっとはお世話になれないって」

「いやいや、なんか離婚って時間かかるらしいよ。母さんの友達がそんな感じだったらしいけど……いや、ゴメン。縁起悪いな。それに、熱あるときに長話しちゃった」

 ふすまの向こうから「よいしょ」という颯ちゃんの声がする。蓮ちゃんをだっこして立ち上がったらしい。

「とにかくゆっくりしてってよ。腹へらない? なんかやってほしいことあったらいいなよ」

 簡単にこういうこと言う颯ちゃんは、どこまでも光属性だと思う。

「大丈夫。さっき叔母さんがお茶のペットボトルくれたし、布団もしいてくれたし」

「そんなんで大丈夫? マジで。必要なものがあったら遠慮しないで言いなよ」

 颯ちゃんがそう言ったのとほぼ同時に、たどたどしい口調で「あきちゃーん」とよびかけてくる蓮ちゃんの声が聞こえた。どちらかと言えば「あいちゃーん」に聞こえる。

「遠慮しないでいいよ。じゃ、おやすみ」

「おやすみ」

 そう声をかけあった。廊下を颯ちゃんの足音が遠ざかっていく。

 わたしはふとんの上に転がって、なるべく目を閉じ、体力を回復させようとしてみる。でも、全然だめだ。生きているだけで体力ってどんどん減ってしまう。

(もっと怒ってもいいって)

 ぼんやりとそんなことを考えた。

 みっつ並んだタンスの影に、黒いものが立ってゆらゆらしていた。やっぱりあれはおばあちゃんの家にいたものじゃなくて、わたしに――たぶんあの百円玉についてきたものらしい。

(もっと怒ってもいいんだって。ねぇ、きみ、どう思う?)

 頭の中で黒いものに話しかけてみる。テレパシーみたいに通じないかな、と思ったけど、よくわからなかった。


 結局一晩、本当に叔母さんの家でお世話になってしまった。本当に着の身着のままみたいな感じで避難してきたから、とにかく一度おばあちゃんの家に戻らないとならない。

「相手のひとはもうとっくに帰ったらしいけど、無理すんなよ。また戻ってきな」

 そう言う颯ちゃんに「ありがと」と言って、おばあちゃんの家に戻った。歩いて五分くらいの距離だ。颯ちゃんは送ってくれると言ったけど、なんだかんだ言ってひとりで帰ることにした。悪いけど、颯ちゃんとずっといっしょにいると疲れるのだ。

 今日も暑い。夏はいつまで続くんだろう――とぼとぼと歩いていると、突然後ろからぽんと肩を叩かれた。

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