12
その日の夜は何も起こらなかった。夜中に一度だけ目がさめたけれど部屋の中は静かで、やっぱりあの百円玉が原因だったんだ、と思った。
もう一度目を閉じて、次に開けたらもう朝になっていた。
『さっき新しい塾に電話しといたからね。中一の夏期講習は火、水、金の午後のコマで、明日から来てくれて大丈夫だって』
十時頃、出勤しているお母さんから電話があったとき、わたしはもう外にいた。今日一日はとりあえずフリーってことだ。賀古さんを探そう。
昨日と同じくらいか、もしかしたらもっと暑かった。家で塗ってきた日焼け止めが、汗でどんどん流れていく。肌が焼けるじりじりという音が聞こえてきそうな気がした。
(……お腹へった)
九時にはもう自転車に乗ってあちこちウロウロしていたから、早くも朝食分のエネルギーを使い果たしてしまったみたいだ。そういえばこの近くに例のスーパーがある。コンビニでパンとか買うよりちょっと安い――そう思って自転車を走らせていくと、営業時間を過ぎているはずなのにスーパーはシャッターが閉まっていた。それだけじゃなく、お店の前に立ち入り禁止の黄色いテープが張られていて、駐車場にはパトカーが停まっている。
(何かあったのかな……)
外からチラチラ眺めていると、急に「泉さん」と声をかけられた。
「賀古さん!」
探していた張本人が、いつのまにかわたしの後ろに立っていた。一昨日とほとんど同じ服装で、ポシェットも相変わらずだ。
賀古さんの目はわたしではなく、その向こうにあるスーパーに向いていた。
「……別のとこ行けって言ったのに」
そう呟くのが聞こえた。
「ちょっと、向こうの方に行かない?」
賀古さんがそう言ったので、わたしたちは少し歩いて、スーパーから離れた。どうしてかわからないけど、あの辺にはいたくないんだろうなと思った。
スーパーの建物が見えなくなると、賀古さんはほっとしたように大きなため息をひとつ吐いた。
「賀古さん、あの……」
「会えてよかったね。はい、百円玉」
賀古さんはそう言って、ポシェットから取り出した百円玉をわたしに差し出した。受け取ると、ネチョッとした手ざわりは相変わらずだ。わたしはほっとして、手の中の百円玉をにぎりしめた。
「ちゃんと今日中に使いなよ。持ちっぱなしはほんと、よくないから……」
そう言う賀古さんの声はちょっと枯れた感じで、顔色もあんまりよくないように見えた。少なくとも、一昨日ほど元気そうには見えない。
「賀古さん、体調だいじょうぶ?」
「大丈夫」
「なんか、ダメな日だったって、弟くん――太一くんに聞いたけど」
賀古さんは、小さい声で「うん」と答えた。「ダメな日ってあるから。どうしてもダメだったら太一に頼むの」
「そっか……」
ダメってどういうことを言うんだろう? それに、賀古さんちのお父さんやお母さんはどうしてるんだろう――そっちも気になる。
そういえば「ふたりともダメになっちゃってる」んだっけ。なんとなくだけど、賀古さんが言う「ダメ」って、風邪をひいたとか、生理中だとか、どうもそういうことではないような気がする。
でもあんまり突っ込んだことを聞くと、賀古さんに嫌われてしまう気がして恐かった。クラス全員に嫌われても、賀古さんには嫌われたくなかった。
「太一さぁ」歩きながら賀古さんが言った。「なんか変なこと言ってなかった?」
「変……?」
わたしは頭をひねって、なにか「変なこと」を言われていないか思い出そうとした。
「別に……あっ、そうだ。賀古さんがわたしのこと『なんか不安そうなひと』って言ってたって聞いた」
賀古さんは「うわ」という顔をした。「……ごめん。なんていうか、変な意味じゃないから」
「いやあの、全然それはいいんだ。ていうかむしろ、なんでわかったのかなって思って……わたし、本当にいつもちょっと、特に理由とかないけど不安だなと思ってて」
さすがに血管がどうとかいう話は、まだしにくい。賀古さんはわたしの話を聞いて、口のはしっこで小さく笑った。おかしいときの笑いじゃなくて、安心したときの笑いに見えた。
「なんとなくかな」
賀古さんはそう言った。「なんとなくだけど泉さん、いつも不安そうに見えるなと思って。まぁ正直、わかんないけどね。泉さんがなんでそんなに不安なのか」
「そう?」
「だって泉さん、そんなに悪いことなさそうじゃん。ふつうに学校行けるし、ちゃんとした服着てるし、家のことはだいたい親がやってくれるでしょ?」
「家のことってご飯作ったりとか、洗濯したりとか?」
「そう、そういうの」賀古さんはそうつぶやくと、両手を組んで腕をぐーっと伸ばした。「うらやましいけどな、正直」
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