09

 起き上がって耳をすましてみた。何か聞こえる。でも、なんの音かがわからない。スマホの画面は真っ暗だし、テレビやラジオは部屋に置いてない。

 窓の外から音がするのかもしれない。そう思って起き上がり、窓を開けてベランダに顔を出してみた。すると音は小さくなって、ほとんど聞こえなくなる。別の部屋かと思って廊下の方に顔を出すと、やっぱり音が小さくなって、

(やっぱり部屋の中だ)

 そう思って中に戻った。

 やっぱり聞こえる。男なのか女なのかわからないけれど、ぶつぶつとなにか呟いているみたいだ。かすかだけど、一度気づいてしまうと気になって仕方なかった。このままでは眠れそうにない。

 わたしは足音を立てないように、部屋の中をそっと移動した。声がどこから聞こえるのか確かめたかったのだ。ベッドから離れ、足音を殺してクローゼットの前に移動し、それからそーっと学習机に近づく。そこでぴたっと足が止まった。

 声が大きくなったのだ。どうやら、学習机の方から聞こえてくるらしい。

 それに気づいたとき、とっさに思い浮かんだのはあの百円玉のことだった。確か寝る前に、学習机の引き出しにしまったんじゃなかったっけ。昨日まではこんな声、一度も聞いたことがない。何かきっかけみたいなものがあったとすれば、あれだ。

 わたしは引き出しに手をかけた。開けて、中を確かめなきゃならない。本当にあの百円玉が原因なのか、ちゃんと自分で確認しなければ。そのとき、手がふるえて引き出しがカタンと上下に揺れた。

 引き出しがほんの少し開く。その中からぶつぶつぶつぶつ、と声が流れだしてきた。

(これ、恨んでるんだ)

 だれの声かもわからないのに、なぜかそう思った。

 わたしは引き出しを閉め直した。聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がした。

 急いでベッドにもぐり込み、夏がけのふとんを頭からかぶった。もう気のせいだということにしたかった。何も聞こえてないようなふりをしながら、ベッドの中で丸くなって朝を待った。


 絶対眠れないと思っていたのに、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。気が付くと窓の外が明るくなっていて、小さなつぶやき声は止んでいた。

 わたしはそっとベッドを下りた。耳をすませる。何も聞こえない。窓の外をバイクの音が走って通り過ぎる音が聞こえ、また静かになった。やっぱり聞こえない。

 おそるおそる学習机の引き出しを開けてみた。開ける瞬間、思わず目を閉じてしまった。声はしなかった。

 そっと目を開けてみる。昨日もらった百円玉は、普通の百円玉に見えた。ラインマーカーや定規の間に挟まって、なにも呟いてなんかいない。本当にふつう、自動販売機とかに入れてもう二度と戻ってこないような、そういう当たり前の百円玉だった。

「……賀古さん」

 わたしはなぜか口に出して、賀古さんの名前を呼んでいた。


 トーストと目玉焼きを焼いて朝ごはんをすませたあと、さっさと身支度をして自転車に飛び乗った。百円玉は忘れないようにポケットに入れた。

 賀古さんに会いたかった。あちこちに目を配りながらペダルを踏んだ。昨日ふたりで行った場所を、ひとりでひとつずつ回った。賀古さんはどこにもいない。どこかにいるはずなのに。

 途中で「百円玉を使わなきゃ」ということを思い出し、ちょうど近くにあった自動販売機で飲み物を買った。百円玉が手を離れる瞬間、やっぱりあのほっとするような感覚はやってきた。ずっと不安なままだった心を、大丈夫だよってあたたかい手で包まれるような気分になった。でも、昨日みたいに無邪気に喜べない。どうしたって夜のことを思い出してしまう。

(賀古さん、この百円玉何なの?)

 賀古さんがなにも知らないとしても、それでも一度は聞いてみないといけないような気がした。


 スーパー、コンビニ、自動販売機、駐輪場――汗だくになりながら賀古さんを探した。自動販売機は見かけるたびにおつりの受取口に手を突っ込んだ。一度だけふつうの十円玉が残っていただけで、あとは全部空振りだった。

 ようやく(今日は特別にバイトを休んでるのかもしれない)という結論に達したとき、太陽はもう空のてっぺんに昇っていた。

 賀古さんの連絡先は知らない。家もどこにあるかわからない。昨日聞いておけばよかった、と肩を落とした。

 もう家に帰ろう。

 そう思って引き返しかけたとき、視界のすみっこで赤いものが揺れた。

 賀古さんのポシェットだった。

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