08

 塾のことばかり考えていたから、賀古さんにもらった百円玉のことも、それを使わなければならないこともすっかり忘れていた。思い出したのは入浴の前、服を脱いだときだった。銀色の硬貨が床に落ち、そのまま転がっていこうとするのをあわてて拾いあげた。

 やっぱり見た目はふつうの百円玉だ。ただ持ったときに少しネチョッという感じがするだけ。どうしてそんなふうに感じるのか、ただの百円玉と何がちがうのか、わたしには全然わからない。

(もう外には出られないな。明日使わなきゃ)

 そういえば、賀古さんのバイトの予定を聞いていなかった。毎日やってるって言ってたけど、土曜日も日曜日も一日も休まないんだろうか。じゃあ、明日も賀古さんに会えるかもしれないってことだ。

 お風呂から上がってリビングの前を通る。今夜、お父さんはどこかに出かけて帰りが遅いらしい。お母さんは電話をしている。たぶん、母方の叔母さんだ。

「――へぇ〜、今時棟上げ式なんかするの。そっちはそういうのうるさいもんねぇ。まぁ、たまにはいいんじゃないの。子供なんか喜ぶでしょうよ……」

 ああ、叔母さん家、建て替えるんだっけ。ちょっと遠いところに住んでいるから、わたしはあまり会う機会がない。だからあまり関係のない話だ。

 もうしばらく会っていないひとつ上の従兄のことを、ちょっとだけ思い出した。従兄自身は悪い子じゃない。でも苦手だ。明るくてハキハキしてて、不安なことなんか何にもなさそうで、わたしとは全然別の生き物みたいに思えてしまう。

 なんとなくポケットの中に手を入れると、またネチョッという感覚があった。ちゃんとここにある。大丈夫だ。

(明日、ちゃんと百円玉使おう)

 わたしはポケットの中の冷たい硬貨をにぎりしめて、自分の部屋に向かった。


 自分の部屋に戻ると、まず百円玉を勉強机の引き出しの中に入れた。ここに入れておけばまずなくさないし、ほかの硬貨にまざってしまうこともない。それから寝る前に少しだけと思って、塾のテキストを開いた。

 夏期講習はどのあたりまで進んだだろう。まだ一年生だけど、もう数学なんかはだいぶ怪しいと思っている。問題集をながめているだけでどんどん気がふさいでくる。今から本気出せば追いつけるだろうか? でも、わたしなんかが勉強がんばって、一体何になるんだろう?

 中学生になると、勉強にも才能が必要なんだな、と思う。できる子はすごくできる。とても追いつける気がしない。わたしなんかががんばって平均点のちょっと上をとり続けたとして、それがいったい何になるんだろう。

 問題集を閉じて、ベッドの上に寝転がった。天井を見ながら考えた。勉強ができたら、スポーツができたら、なにか誰にも負けない特技があったら、わたしのよくわからない不安な気持ちは消えるんだろうか。指先から全身の血を流して死ぬなんてありえないって、心の底から納得して、その幻を頭の中から消してしまうことができるんだろうか。

(お宅はいいわね。うちのは何やらせても普通で)

 急に頭の中にひらめいたのは、お母さんの声だった。今まで何度もそう言われているのを聞いたし、実際そのとおりだから何にも言えることなんかなかった。別に悪口のつもりじゃないんだろうなと思う。たぶん。でもただ謙遜してるってだけでもなくて、七十パーセントくらいは本音なのだ。

 考えれば考えるほどモヤモヤして、さびしくなって、賀古さんは今何してるかなと思った。明日ばらまく分の百円玉を一枚一枚ポシェットにしまっているところを想像して、少しだけ楽しい気持ちになった。


 眠っていたはずなのに、ふと目が覚めた。

 枕元の時計はまだ真夜中だ。夏の夜明けは早いけれど、それでもまだ空は全然明るくなっていない。こんな時間に目が覚めてしまうのはめずらしいことだった。

(なにか夢でも見てたっけ)

 思い出せなかった。目を閉じたまま寝返りをうって、自分の呼吸の音を聞いた。まちがいなく生きている、という感じがする。

 その音の中に、聞いたことのない音がまじっているような気がした。

 息を止めてみた。静かになった部屋の中で、確かに何かが、かすかに聞こえる。

 何の音だろう? よくわからない。まるでチューニングが合ってないラジオみたいだ。低い声で誰かがずっと喋っているような、そういう音だった。

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