07

 小さいころから、たまにおかしなものを見ることがあった。大抵それらは黒い綿を固めたような感じの見た目で、よくはわからないけれど本能的に「いやなもの」だとわかる。後で調べてみると実はそこで人が亡くなってて――みたいなことが何度かあって、だからわたしは彼らのことを「たぶん、あれが幽霊ってやつなんだろうな」と思っている。

 いやなものだ。ちらっと見かける程度ならまだいいけれど、生活の中に入ってこられると辛い。

 以前、近所で火事があったときはしんどかった。焼け跡を黒いものが何体もうろついていて、見かけるたびに怖くて怖くてたまらなかった。なのにその焼け跡は集団登校の通学路の途中にあったから、ほとんど毎朝その前を通らなければならなかったのだ。そのころ小三だったわたしにも、「こんなこと誰かに相談したって解決するものじゃない」ということはわかっていた。だから焼け跡の前を通るときは顔をふせ、一所懸命見ないようにしていたものだ。焼け跡の黒いものたちはそのうち消えてしまったけれど、今でもたまに夢に見る。

 幸運なことに、それからはそこまで辛い思いをすることがなかった。生活圏内でそんなにしょっちゅう人が死んでるわけじゃないし、わたしも全部の幽霊を見られるわけじゃないらしい。たぶん「たまたまチューニングがあったもの」しか見ることができないのだと思う。

 で、小学校高学年くらいからそのチューニングが合わなくなってきて、黒いものを見かける頻度がだんだん落ちてきた。もしかするとこのまま見えなくなるかもしれない――そんな期待を抱いていた矢先、出会ってしまったのがあの、学習塾のやつだった。きっとよほどチューニングが合ってしまったのだと思う。最初は控えめに、だけどそのうちだんだん図々しく、そいつはわたしを窓の外から見つめるようになった。

 だから夏期講習をさぼっていた。あの黒いものがいなくなるまで、塾になんか行きたくなかった。

 でも、思い通りにならないことっていうのは、本当に多い。


 その日、わたしが家に帰ってからすぐ、お母さんもどこかから帰って来た。ソファの上にバッグを放り出し、手の甲でおでこの汗をぬぐいながら、わたしに手招きをした。

「最近、塾休んでるんだって?」

 そう聞かれて、心臓が痛いほど跳ねた。

 たぶん、何も答えなくてもわかっただろう。わたしはそのとき「顔から血の気が引く」っていう感じの顔をしていたと思うし、母さんはわたしを見て大きなため息をついた。

「塾の先生から電話があったの。最近休んでるって――あのね、子どもにはわからないかもしれないけど、タダで行かせてあげてるわけじゃないの。夏期講習一コマ、いくら払ってると思う? サボリとか、本当にやめてほしいの。大体さ、家で勉強してどうにかなるならまだいいけど、どうにかならないんでしょ?」

 わたしはうつむく。言い返せることなんか何もない。黒いものが窓の外からこっちを見てるのが怖いから塾に行きたくない、なんて言ったらどう思われるだろう。

 ただでさえ、お母さんはわたしのことをそんなに好きじゃないのに。

「来週末、模試があるって言ってなかった?」

 わたしはうなずく。お母さんはまた大きなため息をつく。

「成績落としたりしないでよ。面倒かけないで」

 わたしは小さな声で「わかった」とつぶやいた。


 そういうことがあって、だからもう、週明けにはさすがにもう、塾にいかなければならない。さぼってなんかいられない。

 わたしはそんなに頭がいいわけじゃない。たぶん二年生になる前に「塾があるからギリギリついていける」くらいの状態になってしまうと思う。だからせめて夏期講習には通うべきなのだ。

(でも、いやだな……)

 自分の部屋のベッドに寝転んで、天井の模様を眺めながら考えた。よくないものがいるってわかっているところになんか、行きたいわけがない。あの黒いものがいなくなればいいのに。そしたら塾にだってちゃんと通うのに。

 いっそ賀古さんみたいに働いていればよかった、なんてことを考えてしまう。

 賀古さんの親は、賀古さんがああいうバイトをしてるってことを、どういうふうに思っているんだろうか。そもそも、バイトをしていること自体知っているのだろうか。

(いいな、賀古さん)

 そう思ってしまう。賀古さんの家族がどんな感じか知らないけれど、少なくとも彼女は、あの学習塾には通わなくてもいいのだ。今はそれだけでうらやましい気がした。

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