第6話 来客
「なるほどね、アダム・M、・フィールズが、いまだにルナシティ警察を除籍にならずに、休職扱いのままなっている理由が、今、わかりましたよ。だが、彼を見つけ出したとしても、おいそれと、あんたの兵隊になるとは思いませんが」
ベラは差し出されたカップを無視し、言葉を続けた。
「だからこそ、あの娘の治療をあなたに任せているのです。見た目が可愛らしくても、話すことも歩くこともできない。いくら何でも、あんな餌じゃ、アダムだって食いついてはこないでしょう。少なくとも会話ができるように仕上げてもらわないと」
ベラの言葉に、迅は顔をしかめた。
ひどい言い種だな。吐き気がする。
その娘は今日もベラに連れられて、控室で迅を待っているに違いない。
ベラは隣の部屋のドアノブに手をかけながら、迅を手招きした。
「私も忙しいのです。治療が終わったら、自動運転車を送りますから、その娘を私の邸宅まで送り届けてください。車に乗せる手伝いをして、扉のロックを必ず確認するのよ」
そう言って、ベラは隣の部屋に入り、家から連れてきた少女が座る車椅子を押して、再び迅の研究室に戻ってきた。
明るい小麦色の髪。マカライトグリーンの瞳。白い肌。
車椅子に座る少女は19歳と聞かされていたが、迅にはより幼く見えた。それは、彼女の不安げな眼差しが、迷子になった子供のようだったからかもしれない。
彼女の詳細な素性は迅には知らされていなかったが、治療を進める上で、大まかなことは自然に分かってしまった。アダム・M・フィールズと彼女との間には、おそらく深い関係があるのだろう。
彼女を見つめて考え込んでいる迅に、ベラが言った。
「この娘が再び歩けるようになるためには、手術とリハビリが必要です。言語中枢に障害はありませんが、話せないのは精神的な問題から来ているらしく……けれども、ここへ来て効果はありました。あなたが彼女のカウンセリングを担当して一年が経ちますが、以前は無気力で頑なだった彼女が、最近は少し表情を和らげるようになりました。その調子で、声を出せるようにしてください」
しかし、ベラは厳しい顔で前置きをした。
「分かっているとは思いますが、治療を口実に、この娘に手を出すことは許されません。彼女は重要な人質ですから。また、不適切な感情を抱くこともよろしくありません」
「ふん、あんたに、心配してもらわなくても、俺は、そんなことは決してしませんよ」
「わかるもんですか。若い男のやることなんて」
迅は無言だったが、
”何を言ってやがる。それなら、俺じゃなくて他の精神科医に任せろよ”
彼は明らかな嫌悪感を隠そうともせず、ベラを睨みつけた。その様子を、車椅子の少女は、はらはらとした瞳で見守っていた。
ベラは目を細めると少女の頬を軽く撫でる。そして、ぷいとそっぽを向いた彼女を笑うと、研究室の扉を開けて出ていった。
ベラの後ろ姿を見送ると、迅は少女に肩をすくめてみせる。
「元気だったか? こっちじゃなくて、応接室へゆこうか。ここは物置みたいで、ゆっくりできる気分じゃないだろ」
そして、彼の患者の名を呼んだ。
「ジュリエット」と。
* *
窓のない研究室とは対照的に、応接室は隣に控室を備えており、外の遊歩道や遠くの景色を一望できるガラス張りの部屋だった。60階建てのビルの4階に位置しており、高層階の不安定さを避けるために迅はあえて下の階を選んだ。
応接室には、パソコンや医療機器が整然と配置されている一方で、ゆったりとしたソファや木目調のテーブルが置かれ、窓辺には観葉植物やティーセットが飾られていた。そこは、雑然とした研究室とは異なり、落ち着いた雰囲気を醸し出している空間だった。
「ジュリエット、珈琲は苦手だったっけ?ああ、そうだ、研究員からもらった紅茶があったはずだ…」
迅は机の引き出しをごそごそと探し始める。しかし、車椅子を巧みに操るジュリエットが先に紅茶の茶葉を見つけ、ティーポットを手に取った。
彼女はにこりと笑顔で ”私が
一年以上のカウンセリングを通じて、迅はこの少女の性格や背景を徐々に理解していった。
スラム出身であっても、彼女は、卑屈になることなく、優しさを持っていた。しかし、ルナシティの暗部に足を踏み入れ、苦しんでいることも明らかだった。
おそらく、アダムという男に人生を翻弄されているのだろう。ジュリエットは言葉を話せず、詳しい経緯などは迅にも分からないが……。
ただ一つ確かなことは、ジュリエットが淹れるお茶は、迅がやるよりもずっと美味しいということだ。
迅はふっと息を漏らすと、
「ほら、これを買ってきたんだ。デイブレイク駅で売っている焼き菓子だ。前に食べたいって言っていただろ?」と、机の上の紙袋をジュリエットに差し出した。
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