第7話 謎のデータ

 ソファに腰を下ろし、車椅子の前に焼菓子と紅茶を用意した桐沢キリサワ ハヤテは、ジュリエットの両方のコメカミに電極を取り付けた。

 顔にわずかな不快感が浮かべた少女に、迅は優しく言葉をかけた。


「ちょっとわずらわしいかもしれないけれど、これも治療の一環だから、脳波データを取らせてもらうよ」


 ジュリエットは、小鳥が餌をついばむように、焼菓子を一口ずつ丁寧に味わっている。小麦粉に砂糖をまぶして焼いただけの菓子だが、彼女にとっては特別な思い出が詰まっているようだ。

 言葉を話すことができない彼女と迅とのコミュニケーションは、主に筆談で行われていた。


「その焼菓子、お気に入りなんだね。以前はよく買っていたの?」


 迅が尋ねると、ジュリエットは筆談で応じる。


『ええ、安くて美味しいから。コスパも抜群でしょ』


「なるほどね。コストパフォーマンスは大切だ」


 迅が微笑みながら応じると、ジュリエットも、にこにこと笑みを返す。


 スラム街出身であっても、彼女は基礎教育は受けていたようだ。それに、看護士としての経験もある。PC操作も問題なくこなせるが、迅は意図的に紙と鉛筆を使った筆談を選んだ。

 文字を書くことで、患者の性格や感情がより明確に伝わるからだ。ジュリエットが書く文字は、丸くて可愛らしかった。


「君が親しくしていたアダムも、その焼菓子が好きだったの?」


 迅が尋ねると、ジュリエットは首を横に振る。


『わからない』


 些細な筆談を通じて、迅にはジュリエットが本質的に明るく優しい少女であることは分かってはいた。

 彼女は迅の治療には比較的、協力的だった。今の自分の状況を何とか改善したいという気持ちも感じられた。しかし、彼女がこれまで関わってきた人々、特にアダム・M・フィールズについては、彼女はどんな質問にも答えようとはしない。ジュリエットは明らかにアダムを守ろうとしていた。


 アダムの話題に触れると、ジュリエットの表情が一瞬にして曇る。せっかく打ち解けてきた彼女が心を閉ざしてしまっては困る。依頼者のベラ・バリモアの機嫌を損ねるわけにもいかない。


迅は別の方法でも、アプローチを試みていた。


「宿題は終わった?」と彼が尋ねると、ジュリエットはバッグからA3サイズの画用紙を取り出した。

 その画用紙には、人の形が大きく描かれ、マーカーペンで自由に体の内部が描かれていた。


 これは『空想解剖図』と呼ばれるもので、患者が想像だけで自分の体の内部を描いた絵だ。

 この『空想解剖図』を通じて、描いた人の内面を垣間見ることができる。それと、脳波データと照らし合わせることで、その人の感情を大まかに推測することが可能になる。

 その患者の問題が現れた原因を特定することで、治療計画に役立てることができるのだ。


ジュリエット・カナリアの「空想解剖図」は、非常に興味深いものだった。


―  黒マジックで描かれた右肩の蔦のタトゥー。手首の傷跡。青で描かれた首のあざ。心臓は淡いピンク色で、その下には明るい緑色の笛が描かれている  ―


「さて、これをどう分析すればいいんだろうか」


 迅は、ジュリエットの脳波データと手にした「空想解剖図」を見比べながら考え込む。


 彼の所属するコンピュータ科学・人工知能研究所では、脳波データから患者の思考を文章化する技術に成功している。現在はまだ単語の羅列にとどまっているが、それでも重要な手がかりを得ることができる。


ジュリエットの脳波データから取り出した思考は以下の通りだ。


- データ1:That girl favorite baked(あの娘が好きな焼菓子)

- データ2:Slum(スラム街)

- データ3:Adam(アダム)

- データ4:Pied Piper of Hamelin(ハメルンの笛吹き男)

- データ5:Ikaru(イカル)


データ1からデータ3までは、これまでのジュリエットとの会話から、迅にも予想がついていた。データ4の「ハメルンの笛吹き男」は、彼女が描いた『空想解剖図』にある緑色の笛と関連があるようだ。

 しかし、データ5の「イカル」という単語は、迅にはまだ謎のままだ。それは男か女の名前なのか、それとも何か別の意味があるのか。ジュリエットが無意識のうちに隠している情報なのかもしれないが、その理由や背景は不明だ。


 迅は、ジュリエットの脳波データと『空想解剖図』を見比べながら、彼女の心の中に隠された真実を解き明かそうとする。


「『イカル』……この少女の頭の中の言葉。その意味は、一体、何なんだ?」


 迅はそう独り言を漏らしながら、眉根を寄せた。



*  *


6月30日、午後6時。

かつてエバンス家の邸宅だったホテルの二階は、いつになく賑わっていた。


「ねえ、どう? 似合ってる?」


 少女がくるりと一回転し、明るいパステルブルーのワンピースの裾を翻らせて、はじけるような笑顔を見せた。

 銀色の巻き毛と深い青の瞳が、息をのむほど美しい。その姿は、12歳とは思えないほど大人びて見えた。


― イカル・エバンス ―


 このホテルはかつては彼女の父、大富豪エバンス氏の所有物だった。しかし今は、ルナシティで障害事件を起こしたアダムと、身分を隠す必要があるイカルの隠れ家となっている。


「イカル、浮かれすぎるなよ。カーニバルをちょっと見て回ったら、すぐに帰るんだからな。それに、外では帽子を深くかぶって、目立たないようにするんだぞ」


「うん、わかってるって。でも、嬉しいな。アダムが一緒に来てくれるなんて、思ってもみなかったから」


 アダムにとっても、イカルをずっと山の中のホテルに閉じ込めておくわけにはいかないということは理解していた。しかし、ルナシティはスラム街とは、また違う面での様々な危険が潜む街だ。


「ルナシティから逃げ出してからもう三年も経つしな。いつまでも隠れてばかりいるわけにはいかないのかもしれない」


 玄関へと続く階段を下りていくイカルの足音が聞こえる。アダムは、吸っていたIQOSアイコスを消してホルダーにしまうと、サングラスをかけた。

 そして、イカルの後を追いかけていった。

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