第5話 ベラ・バリモア

 ルナシティ大学。

 それは、近未来都市ルナシティの中でも、高い学術的評価と幅広い研究分野を兼ねそろえた、最も権威ある総合大学だ。


 特に桐沢キリサワ ハヤテが研究員として所属する、CSAILシーセイル(コンピュータ科学・人工知能研究所)は、研究領域、研究員の卓越した優秀さ、人数においても最大の研究施設だった。


 CSAILが入居するビルは、ルナシティの高層ビル群の東端に位置し、ガラス張りの壁越しにルナステート88や政府機関、ルナシティ警察のビルが一望できる。

 60階建てのこのビルの内部は、30階から1階まで中央部分が吹き抜けになっていて、下から上を見つめ続けると、果てのない天井に吸い込まれてゆくような、おかしな感覚に陥ってしまう。

 各フロアにも壁がなく、迅は扉のある個別の研究室をもらえるまでは、この開放感に随分と戸惑ったものだった。


*  *


「何ですか、この部屋は! CSAILには学生の見学者や、観光客もたくさん来るんですよ。整然とした未来空間のPC機器や研究資料の間に、汚れたリュックや登山用具を置いて、こんなに乱雑な部屋があるなんて、見られたら恥ずかしいとは思わないんですか!」


 研究室の扉を開けて入ってきた女の言葉に、迅は飽き飽きして目を向けた。


「俺の部屋をどう使おうが、何をしようが俺の自由でしょ。必要なことはきちんとやってるし、ここに学生や観光客は来ないから問題ないんじゃないですか」


 知らぬふりでパソコンのキーボードを打ち始めた迅に対し、女は苛立ちを隠せなかった。


「受け入れ先のなかった、あなたをここまで引き上げてやった私の恩を忘れたの?それに、もう、休日に危険な 岩壁登攀ロッククライミングをやるのは止めなさい。無意味な山で命を落としたら、それまでのあなたへの投資が水の泡です。保守派の活動に参加させたのも、スラム街での奉仕活動に明け暮れさせるためじゃない。やるべきことはやっていると言うなら、さっさと目的を果たしなさい!」


 迅はまくしたててくる女の方を振り返る。いけすけない女。そう思っても、逆らえない自分に彼はジレンマを感じていた。


 ベラ・バリモア。


 彼女がかけている銀縁の眼鏡は、冷酷な心を隠す盾のようだ。その奥にある群青色の瞳は、底知れぬ冷たさを湛えている。

 高身長で、ベリーショートの髪とキャメルのスーツを着こなす姿は一見するとスタイリッシュに見える。だが、髪色は藁のように煤け、顔のつくりは左右がアンバランスでお世辞にも美人とはいえない。おまけに、彼女のきつい表情は、”鉄面皮”という言葉がぴったりだった。


 元ルナシティ警察の警視総監であり、革新派ライトウィングの現政権にも絶対的な力を持っていたベラだが、スラム街の子どもたちの人身売買に関わった疑いで二年前に辞職した。

 それでも、ベラは、依然としてルナシティの政治において絶対的な権力を保持していた。だが、次の選挙で政権が革新派から保守派レフトウィングに移る可能性が高く、そうなれば、その力は急速に失われるだろう。


 迅はベラ・バリモアに冷たい視線を投げかけて言った。


「最近、スラム街では、未成年の売春婦が次々に殺害される事件が起こっている。被害者はもう三人だ。その一番の容疑者が、あんたの妹、脱獄犯のリア・バリモアだというのは皮肉な話ですよね」


 ベラの唇がわずかに歪んだ。迅はそれを見て、さらに皮肉を込めて続けた。


「今更、外野がしゃしゃり出なくたって、今まで散々自慢してたにまかせておかけばいいものを。なぜ、あんたは俺をスラム街に潜入させてまで、リアと、その脱獄を手助けした男、アダム・M・フィールズを見つけ出すことに躍起になっているんですか。随分、おかしな話だな……と、俺は思ってるんですがね」


 ベラは冷ややかに言った。


「妹のリアは、まさに殺人鬼です。辞職に追いやられたとはいえ、私はとしてのプライドと、家族から犯罪者を出してしまった罪悪感に苦しんでいる。”あんな女を野放しにしておけない”と、私は取る物もとりあえず、出来うる限りの行動を起こすために立ち上がった。”……という理由ではどうでしょう?」


迅はふんと鼻で笑って、ベラをねめつけた。


「まあ、そういうことにしておけばいいんじゃないですか。だが、実際は、あんたを失脚させた人身売買の証拠を保守派に売り渡したのはリアだ。その殺人鬼が保守派と繋がっていることを世間に知らしめれば、次の選挙では保守派が不利になる。現政権―革新派― に力を持つベラ・バリモアとしては、リアを捕まえて白日の下に晒すことが必要だった。そのためには、リアと何らかのコンタクトがあったアダム・M・フィールズを見つけ出す必要があった」


「ふん、さすがに精神分析がお得意なキリサワね。そう、あなたの言う通りです。革新派に反対する保守派が提出した人身売買のファイルは、私を憎む妹からのものに違いありません。彼女と保守派との関係は以前から取り沙汰されていたのです。そして、そのファイルを手に入れ、リアに渡したのは、人身売買の舞台となったフィールズ児童養護施設の出身者、アダムに違いありません。だから、あなたは、スラム街を徹底的に調査して、アダムを見つけなさい。そして、私の目の前に連れてきなさい」


迅はベラ・バリモアに冷ややかな視線を送ると言った。


「そのアダム・M・フィールズという男は、あなたがスラム街の児童養護施設から買い取った子どもたちの中でも、特に優秀で、あなたの肝いりでルナシティ警察に入所させたと聞く。その男に裏切られて、復讐するつもりなんですか?そんなことに加担させられるのは、俺はまっぴらなんだが」


「復讐だなんて、まさか。彼は私が育てたお気に入りの兵隊ですよ。信じられないほど優秀な兵隊。アダムにはまだ働いてもらわねばならなりません。このルナシティを私が完全に手に入れるためにも」


 迅は黙り込んだ。


 ベラ・バリモアは、優秀な若い男を固執して愛している。

 彼らの人生を自分の範囲エリアに拘束し、自分のために働かせることに愉悦を感じる女だ。アダムも、そしてこの俺も、この女の奴隷だ。妹のリアが殺人狂であるように、この女もまた、ある意味で異常者だ。



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