第1話 隠れ家
6月25日。
外には荒れた夏の海が広がっていた。
今年は夏が早く、温度計は真夏と変わらぬ目盛りを示している。
二階の窓の下には波飛沫を上げる海が直接見えている。かつては海にせり出していたバルコニーは取り外されて今はなかった。
三年前、イカルのもう一つの人格であるWorker(ワーカー)によって、俺はこの屋敷に連れてこられた。
首都ルナシティから車で40分の岩壁に建つホテル。ここは、元はルナシティでも有数の大富豪の屋敷で、一時期政府の所有となり、その後売りに出されたが買い手が見つからなかった。最終的には、海外の投資家が購入した。
それはそうだろう。この屋敷は曰くつきの暗い過去を背負っている。
ここは、俺が担当した殺人事件が起きた場所……エバンス邸であり、イカルがかつて両親と住んでいた家だ。海外の投資家というのはおそらく嘘で、ワーカーが全てを管理している。
当時は9歳だったイカルの別人格が、その能力を発揮しているのは、俺にとっては驚きだった。イカルはおそらくギフテッド、つまり非常に高い知能を持ち、その能力は、別人格のワーカーに集約されている……ということなのかもしれない。
エバンス邸は現在、中流向けのホテルに改装され、旅行者などの限られた範囲で経営を続けている。俺は名義上のオーナーで、アダム・M・フィールズという本名を隠し、デビッド・ラカムという偽名を使っている。
使用人は俺がスラム街で見つけてきた薬物依存のない数人に限定しているが、彼らは真面目に働いているようだ。俺にとっても、山中のホテルは隠れ家としては悪くない。
しかし、ルナシティの政治地図は、過去三年間で大きく変わった。ルナシティのさらなる進化とスラムの撤廃を推進していた
来月の選挙では、革新派から保守派への政権交代が予想される。
俺にとってスラム街は、忌まわしい記憶の場所だ。良い思い出は一つもない。とはいっても高度に発達した首都ルナシティにも、二度と戻りたいとは思わない。
ただ、一つだけ、気がかりなことがあった。『社会浄化』を名目に日々、スラム街で行われている外部からの暴力や放火や虐待だ。
スラム街で暴動が起こった時に俺を助けてくれた、あのマンホールチルドレンは、今はどうしているだろうか。
スラム街での殺人や放火のニュースを聞くたびに、”ハメルンの笛吹き男”の話を俺に聞かせて、幸せの国へ連れて行ってほしいと笛を差し出した、痩せた子どもの顔が思い浮かぶ。
昨夜もスラム街で少女が殺された。三年前、俺が脱獄を手助けした連続殺人犯リア・バリモアの歪んだ笑顔が脳裏をよぎった。
この先にルナシティを震撼させる事態が必ず起こる。この一時的な避難所での平穏な生活が、長くは続かないことを、俺は知っていた。
* *
「アダム……これ、着てみたんだけど」
部屋のドアがゆっくりと開き、はにかむ少女が入ってくると、アダムは思わず目を細めた。
頬にかかる銀色の巻き毛と、深い青の瞳が、明るいパステルブルーのワンピースを引き立てている。12歳になったイカルは、息をのむほど美しい少女に成長していた。しかし、アダムは不機嫌そうにイカルに言った。
「何だ、その服は? 目立つ格好をするなと、いつも言っているだろ」
アダムは少女に向けた鋭い目を伏せ、加熱式タバコ ”
「えっ、この服、アダムが買ってくれたと思ってた。知らないうちに部屋に置いてあって……私が、ルナシティで開かれるカーニバルに行きたがってたから……そうか、アダムじゃなかったの」
イカルは落胆して俯いた。もしかすると、アダムがカーニバルに連れて行ってくれるかもしれないと、密かに期待していたのだ。
しかし、その時、突然顔を上げた少女がアダムに抗議を始めた。
「ちょっと、アダム! どうして、オシャレした女の子に『可愛いね』くらい言ってあげないの? それに、こんな山奥に閉じこもってばかりじゃ、イカルが可哀想でしょ。カーニバルに出かけるくらい、別に構わないじゃないの!」
いつも憂いを帯びたイカルの青い瞳が、今は明るく輝いていた。アダムはIQOSから白い蒸気を吐き出し、眉をひそめた。
この話し方からアダムには分かる。この少女はイカルの中の別の人格の一つだ。亡くなったジュリエットに憧れていたイカルが作り出したもう一つの自分。その人格は初めてアダムの前に現れた時、ジュリエットの姓を自分の名前として名乗った。
「……カナリアか。イカルの服を買ったのはお前か。余計なことはするな」とアダムは苦い顔をして言った。
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