第31話 お前の中に何人いる?
アダムは、スラム街の路地で、イカルをゴミ箱の裏に隠して、自分だけマンホールの中に入って行った。
中は薄暗く、相変わらず、悪臭と汚水にまみれて、ハエが飛びまわっていた。
一つしかない着替えを汚すわけにはゆかない。アダムは靴を脱ぎ、ズボンの裾を膝までたくし上げて、汚水の中を歩きながら、名無しの子どもの家を探した。
マンホールの中には誰もいなかった。
夕方に近づいて、外の太陽の光が少し翳ったといっても、真夏のマンホールの中の暑さと湿気は酷いものだ。夜にならなければ、ここの住民たちも戻ってこないのかもしれない。
しかし、以前にアダムを助けてくれた名無しの子どもの姿どころか、その家ももうなかった。中は荒らされて、前に見た居心地の良い空間は見る影もなかった。
その時、
「あいつはもういないよ。マッドがデイブレイク河で死んだんだ。それを知った与太者がその家を壊して、あいつはどこかへ追いやられちまった」
戻って来た別のマンホールチルドレンが後ろから声をかけてきた。
振り返ったアダムは、無防備な笑顔を向けてくるその子の顔を、複雑な想いで見返した。
マッドがいなくなって、このマンホールを取り仕切る勢力図が変わったってことか。あの名無しの子どもはまた住処を失って、別のマンホールに移っていったのかもしれない。
* *
アダムがマンホールから外に出ると、待っていろと命じておいたゴミ箱の裏には、イカルはいなかった。
「あいつ、スラム街の奥に行ったんじゃないだろうな」
焦ってアダムは周囲を探す。すると、イカルは路地の奥で震えて泣いていた。服が汚れて体からは悪臭がした。アダムはイカルの傍までゆくと、呆れた顔をして言った。
「お前、まさか、俺の後に付いてマンホールに入ったのか。止めろといったのに」
「あの場所は何? ハエだらけで、変なゴミがいっぱいで……あんな不潔なところに住んでいるなんて、信じられないよ」
そら見たことかと、アダムは、ため息をついた。
「お前、膝から下がクソまみれじゃいないか」
そういう彼自身も、同じようなものだった。とりあえず、公園の水道で足を洗おうと、アダムは、イカルと一緒に公園に向かった。
今が真夏で良かったぜ。イカルに足を洗わせながら、アダムは苦い笑いを浮かべて言った。
「いっそのこと、二人で強盗にでもなるか。そこら辺の店に押し入って」
乾いた目をしてアダムを振り返るイカル。冷たい青い瞳には表情がなく、いっそのこと、なす術を持たない自分を責め立ててくれた方がずっと楽だと、アダムは思った。
ちっ、自分で自分が嫌になるぜ。結局、俺はスラム街以外では生きられないってことなのかよ。
アダムは、そうつぶやきながら、ポケットに入れてあるルビーの指輪に手を触れた。ジュリエットのために買った指輪だった。
彼女はもういない。いっそのこと、これを売ってしまおうか。たいした金額にはならないだろうが、二三日をしのぐ食い物くらいは買えるだろ。
その時だった。彼らの目の前に車が止まった。アダムはびくりと後ずさって、その車を鋭くねめつけた。
流線型のフロントを持ち、色はメタルシルバー。運転手が乗っていない。自動運転か……しかも、レベル5。それは完全にシステムだけで運転を可能にする、ルナシティでもめったに見ない最新の車種だ。すると、泣いていたイカルが突然立ち上がった。アダムが振り返ると、イカルは彼が見たことのない別の表情をして言った。
「大丈夫です。家も食べ物も十分な用意ができます。その点ならお任せください。どうぞ、その車にお乗りください」
大人びた女性の声音だった。直観で、アダムはそれは彼が初めて会う女の声なのだと認識した。
「私はエバンス家の秘書です。邸宅の管理を任されていました」
アダムは、イカルの言葉に驚いた。エバンス家の秘書?
しかし、イカルは冷静にアダムを見つめて、言葉を続けた。
「私はイカルではありません。私の名は
「私の中に……?」
アダムはその時、初めて難解な問いの答えにたどり着いた気がした。
本来の少女であるイカル。
少年のイカル。
ジュリエット。
そして、この ”ワーカー”と名乗る秘書。
― 多重人格 ―
聞いたことはある。今は解離性同一症と呼ばれているんだったか。子ども時代に適応能力を遥かに超えた激しい苦痛や体験による
父親と母親から長年、児童虐待を受けていたイカルが、その症状を発症しているのは理解できることだ。
いや、俺は薄々は感じていた。だが、そんな者が実際に存在するなんて……。それに、本当に、こいつの中に居るのはこれだけか? カミソリめいた目で、目の前の子どもを見つめてアダムは言う。
「イカル、お前の中にいったい何人のイカルがいる!?」
【第三章 Dangerous Zone 】
~完~
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