第30話 逃走

「ジュリエット……?」


 だが、後ろを振り向いたアダムが見たのは、彼の恋人ではなく、銀色の髪と青い瞳を持った9歳の少女だった。イカルだ。アダムは思わず息をのんだ。


「アダム、お帰りなさいっ」


 イカルは明るい笑顔でアダムの胸に飛び込んできた。それは、いつも彼がアパートを訪れた時のジュリエットの仕草だ。アダムはイカルを抱きしめることもできず、その腕を振りほどこうとした。それに、ジュリエットの誕生日プレゼントにと買った……失くしたはずの指輪が……


「イカル、その指輪はどこで見つけたんだ?」


 それが、イカルの右手の薬指に光っていた。

 なぜ、そんなことが起きるんだ?! アダムはひどく動揺した。


「外せっ。その指輪はお前のものじゃないっ」


 アダムはイカルを突き飛ばした。床に倒れ込んだ少女の瞳がきらりと光る。冷たく暗い青色。その表情には先ほどの陽気さは影も形もなく、


「何だよ……酷いな。ぼくがあの消防士を殺して、ジュリエットを守ってやったのに」

 声も違っていた。


 ゆっくりと立ち上がりながら睨みつけてくる子どもを見据えて、アダムは言葉に詰まった。こいつは本当にイカルなのか?


 いや……俺はこいつを知っているぞ。


 アダムの脳裏に、数ケ月前に彼が関わったエバンス邸での殺人事件が、にわかに浮かび上がってきた。あの豪邸のバルコニーで自らの罪を告白して、そこから飛び降りようとした少年イカル。当時は、アダムはイカルが少女とはまだ気づいていなかったが、今、目の前に立っているのは、間違いなく、あの時の


 アダムは声を荒らげる。

 

「守る? ジュリエットは死んだんだぞ!」


 その瞬間に、イカルは大きく目を見開いた。その直後に、また表情が変わった。


「なに言ってんの。私はここにいるじゃないの」


 イカルはジュリエットの声で言った。ころころと態度を変えるイカルに、アダムは混乱した。

 危険だ。この子どもはとてつもなく危険。深く考えずに、こいつを犯罪現場からの自分の元に連れてきてしまった俺は……連続殺人犯のリア・バリモアを外に出してしまったことといい、間違いを重ねてしまったのではないのか。

 たまりかねたアダムは、イカルの肩を強く揺すぶった。


「おい、イカルっ。お前は一体……」


 彼がカミソリめいた視線を投げかけてくる。イカルはそれに怯えて、右指にはめた指輪を外してアダムに差し出した。指先が震えていた。それから、こらえきれずに泣き出した。


「ぼくは誰も殺してない。ジュリエットは死んだの? 嘘だ。嫌だよ、そんなの!」


 アパートの下から、ざわめく声が聞こえてきたのはその時だった。地元の警察か? アダムは息をのんだ。このアパートは自分が契約者だ。水難事故で死んだジュリエットと自分の関係を警察が探り始めたら、どうなるかは分かっていた。それどころか、一緒に住んでいたイカルの存在まで知られてしまうかもしれない。


「イカル、逃げるぞ。俺もお前も、身元がバレたら終わりだ」


 でも、どこへ行けばいい? 金もないし、頼れる人もいない。


 すると、リュックを手にしたイカルが、ぐいとアダムの手を引いた。

「ほら、これアダムのだよ。ちゃんとアダムがもらった笛も中に入れておいたから」


 早く! とアダムの手を引いて急かしてくるイカルは、いつも通りのイカルだった。だが、荷物まで詰めて……こいつは、何でこんなに用意周到なんだ?


 アパートの階段を上ってくる足音が、急に近づいてくる。今は迷っている暇などない。


「早く、反対側の階段だ!」とアダムは叫びながら、イカルとともにアパートの外へ飛び出した。


*  *


「結局、俺が戻る場所はここしかないのか」


 アダムはフィールズ児童養護施設の焼け跡を苦々しく見上げた。真っ黒に焼け焦げた柱だけが残され、灰と墨だけになってしまった建物には彼が過ごした部屋の面影はまるで残されていなかった。

 アダムはイカルが用意していた普段着に着替えると、イカルの銀の髪をボサボサにして、顔や着ている服も柱の煤で汚してやった。やたらに目立つ顔立ちも見えないように帽子で隠した。

 生まれ故郷の焼け落ちた跡を見て、アダムは胸が痛んだ。嫌でたまらなかった児童養護施設に自分がこんな気持ちになるなんて。どんな酷い想いが残っていても、ここは俺がジュリエットと出会った場所だからか。

 イカルは黙って焼け跡を見つめている。こいつが何を思っているのか、俺には少しもわからない。


「ねぇ、これから、どこに行くの」とイカル。

「俺にもよくわからない」

「僕、ここじゃなくって、アダムが生まれた街に行ってみたいな」

「ナイトフォールに? お前って、よほど地獄に入りたいとみえるな。あそこはスラム街でも一番治安が悪い場所だ。よそ者は殺されて、身ぐるみはがれちまうぞ」

「……うわぁ、怖い。なら、マンホールの中で暮らすってどう?前にアダムはそこに住む子どもに助けてもらったんでしょ」

「馬鹿か。あそこはお前なんかは、一秒も我慢できない場所だ」


 だが、あの笛をくれた名無しの子どもは今頃、どうしているだろう。イカルの手を引きながら路地を歩くうちに、アダムは、いつかのマンホールの入り口を見つけた。


「ちょっと見てくる。直ぐに戻ってくるから、お前は路地に隠れてろ。そのゴミ箱の裏にでも。絶対に一人で歩き回ったりするんじゃないぞ」


 そうイカルに強く言い聞かすと、アダムはマンホールの蓋を開けて、その中に入っていった。


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