第29話 戸惑い
黒いワゴン車から出てきたアダムの上司は、汚いモノを見るような目を彼に向けて言った。
「貴様が起こした傷害事件の後始末については、上からはまだ何のお達しもないが、あれだけのことを仕出かしたんだ。ルナシティ警察には二度と戻れんよ。まぁ、こうなっては元のゴミ溜めに帰るしかないな」
傍で聞いていたリアは、喉の奥でクスクスと笑い、アダムに声をかけた。
「あらあら、そんなに酷いこと言われちゃって。いっそのこと、私と一緒に来ない? でも、あなたは私の兵隊になんてなれないわよね」
「うるせぇな。分かってんなら、いちいち、誘いをかけてくるな」
こんな危険な女とは、できるだけ早く距離を取った方がいい。それに、アダムは、スラム街に残っているイカルが気になって仕方なかった。
リアはにべもない青年の拒絶に肩をすくめた。
「そう。じゃあ、ここでお別れね。安心して。あなたとの約束は守るわ。見てて。ベラをルナシティのトップから引きずりおろしてやるから」
安心などできるはずがない。アダムが冷ややかな視線を送ると、リアは去ろうとする彼を甘い声で呼び止めた。
「ねぇ、私、まだ麻酔が効いてて足が上手く動かせないの。車椅子から立つくらいは、手を貸してよ。あなたを留置所から出してやったんだから」
そう言って手を差し出したリアの潤んだ瞳には、見つけた獲物に対する歪んだ期待が溢れていた。アダムは何も言わず、その手を振り払った。
唇を歪めた女。軽蔑の眼差しを送りながらアダムは言葉を吐き捨てた。
「リア・バリモア。今、あんたは俺が車椅子ごと、あんたを蹴り倒すことを予想して、それを期待してただろ。誰がお前の
リアは図星をつかれて苛立った。”勘がいいのも過ぎると可愛げがないわ”と、言わんばかりに言い放つ。
「なら、ゴミ溜めにでも帰ってなさいよ! 私がベラを排除すれば、スラム街は生き長らえる。ゴミを溜めるのには困らないわ。ただし、それも、しばらくの間だけだけど」
「地獄に落ちろ、
激昂した声をあげてから、踵を返したアダム。
「待てっ、貴様っ、リア嬢に失礼だぞっ!!」
だが、怒鳴り声をあげた上司の男をリアが止めた。
「放っておきなさい。あの男の銀行口座はすでに凍結されてる。今、住んでいるルナシティのアパートも解約された。文無しで宿無しのアダムくんが、戻れる唯一の場所は、暗黒のスラム街。地獄に堕ちるのは彼の方よ」
リアは残酷な笑みを浮かべる。アダムの姿が駅の方向へ去っていくのを見送った後、リアは低く笑った。
「アダム・M・フィールズ……なんて面白い子なの。私は彼にキスしたいわ。そしてね、それから……あの子を私が殺すの」
* *
地下鉄の改札口でアダムは苦々しく顔をしかめた。リアに悪態をつきまくったものの、金もないし、セルフォンも留置所に入れらた時に没収されて、地下鉄に乗るためのツールが手元に何もない。
どうする? ルナシティ中央ターミナル駅から、ジュリエットのアパートのあるデイブレイク駅まで徒歩でゆけば2時間以上はかかるぞ。
「そんな悠長なことをしてられるか!」
一刻も早く、イカルを保護しなければ。アダムは辺りを見渡してみた。すると、路上に違法駐車してあった配達用のバイクが目に入ってきた。運転者は配達に行っているらしい。うまい具合にキーは差したままだ。
仕方ねぇ。まぁ、いいか。どうせ、もうルナシティ警察の刑事には戻れないんだし。
悔しい気持ちと同時に、今まで自分にかけられていた
アダムはそのバイクに跨ると、キーを回してエンジンをスタートさせた。そして、フルスピードでデイブレイク駅への道を走り抜けていった。
* *
ジュリエットのアパートには鍵がかかっていなかった。アダムは警戒しながら、
「イカル? いるのか?」
そう声をかけながら、部屋の中に入っていった。
イカルはいなかった。鍵もかけずにどこかへ行くなんて、このスラム街では命取りだぞと、アダムは顔をしかめる。けれども、アパートの中は、荒らされることもなく、数週間前に訪れた時と変わらなかった。
台所のテーブルには、アダムとジュリエットとイカルのマグカップが並んでいた。
椅子の背もたれには、ジュリエットが愛用していたオフホワイトのTシャツが掛けられたままになっていた。 部屋を見回すと、ジュリエットの持ち物があちこちに残されていて、彼女がまだここにいるかのようだ。アダムは不思議な感覚にとらわれてしまった。
けれども……
”あの娘、死んだらしいわよ。同じフィールズ出身の消防士の男と一緒に”
リア・バリモアの残酷な声が耳に残っている。その現実が心の中にのしかかってきた時、アダムは突然、息苦しくなり、胸を押さえながら床の上にうづくまった。
気を落ち着かせようと胸ポケットを探したが、精神安定剤がわりの
せき込みながらテーブルに手をついて、どうにか立ち上がろうとした時、
「これは……?」
アダムはテーブルの果物かごの中に、ベロア地の小箱を見つけたのだ。
それは、ジュリエットの誕生日に渡そうと思って、彼が用意した指輪のケースだった。
「失くしてしまったと思っていたのに……なぜ、ここにあるんだ……?」
そのケースを開けてみると、中に指輪は入っていなかった。
まさか、ジュリエットが見つけていてくれた? いや、それなら、彼女がそのことを俺に言わないはずがない。
その時だった。
「アダム、お帰りなさいっ。やっと仕事が終わったのね、 お疲れさま」
背後からジュリエットの持ち前の明るい声が響いてきたのだ。アダムの心臓がどきりと音をたてた。
「ジュリエットっ……?」
振り返ると、そこには笑顔の少女がいた。その手には、彼が恋人のために選んだルビーの指輪が輝いていた。アダムは驚きと疑問と不安とが入り混じった思いで、彼女を見つめた。
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