第28話 脱出
リアの足首に埋め込まれていたマイクロチップを取り出したアダムは、長い息を吐いた。血なまぐさい現場には慣れているが、医者の真似ごとまでさせられるとは思わなかった。
局所麻酔が効いているうちは、上手く歩くことができない。リアは取り出したマイクロチップをサイドテーブルの上に置くと、用意していた車椅子にどさりと座った。
顔をしかめながら手を消毒しているアダム手招き、高飛車に言う。
「ほら、ぐずぐずしてないでさっさと支度しなさい。今、着ているスーツの上に、この白衣を羽織って。この部屋に隣接しているルナステート88のショッピングモールには整形クリニックもあるの。そこから出てきた患者と看護士を装って、私たちはここから堂々と出てゆくのよ」
彼女は、自分の計画を実行するために、時間がないことを知っていた。
「呆れる。車椅子だけじゃなくて、白衣まで用意してたのか」
「本当は別の部下に車椅子を押させようと思っていたけれど、あなたがやらかしてくれたおかげで、助かったわ」
意味深な笑みを浮かべて見つめてくるリアに、アダムはふんと軽蔑の目を向ける。
「助かった? 俺が麻酔が効いて動けないあんたを置いて、ここから逃げたかもしれないのに」
すると、リアは高飛車な顔をして言った。
「あなたは逃げれないわ。だって、私に協力しなければ、ルナシティはスラム嫌いのベラの思うがまま。あなたの護りたい街は跡形もなく、消されてしまうのだから」
* *
リアの寝室に残されたマイクロチップは、サイドテーブルの位置を警察本部に通知し続けていた。部屋に備え付けられた監視カメラは、彼女が寝室でくつろぐVTR映像を映し出しているだけだった。本当のリアのいる場所は、空っぽになった彼女の部屋を他の刑務官が見つけるまでは、ベラたちに知られることはない。それでも、急ぐ必要があった。
アダムはリアの車椅子を押して、エレベーターに乗り込んだ。2日前の夜、ジュリエットと別れた後に、男たちに襲われ、逃げるために乗り込んだものと同じエレベーターだった。
あの後、俺が逃げている間にジュリアは……
思い出すのも辛い。目を床に落として唇を噛み締めているアダムの姿に気づいて、リアが言った。
「ああ、あの娘、死んだらしいわよ。同じフィールズ出身の消防士の男と一緒に。憐れなアダムくん。あの娘に入れ込んで、傷害事件まで起こしたっていうのに他の男と死んじゃうなんてねぇ」
リアがくすくすと意地悪く笑う。アダムはその声に吐き気を覚えた。だが、消防士の男……やはり、ジュリアを追い詰めて川に落としたのは、マッドか。
アダムはリアを無視して、ガラス越しに見えるルナステート88を見上げた。ジュリエットと2人で、そのビルの88階で食事をした夜を思い出す。
その後、デッキで見た月は半分明るく、半分が暗い片割れ月だった。それをレストランと同じ名前の『
スラム街はあれと同じ月の影のようだ。けれども、その影に光が差して満月になることはないのだ。……と、彼女は俺にそう言った。
あの後に、俺に人身売買の証拠のファイルを渡したことで、ジュリエットは命を落としたのだ。
自分が別の男から逃げている間に、ジュリエットはマッドに追われていた。彼女はどんなに怖い思いをしただろう。水の中はどんなに苦しかっただろう。ジュリエットの明るいマカライトグリーンの瞳が、恐怖の色に染まって消えることを考えると、アダムは胸が締め付けられた。
アダムは目を閉じて、深呼吸した。ジュリエットを守ってやれなかったことが悔しくてたまらなかった。
そう言えば……
”ジュリエットがおかしな男と河に流された。ジュリエットを助けて!”
その時不意に、アダムは、彼に電話してきたイカルの言葉を思い出した。イカルはどうしているのだろう? ジュリエットの帰らないアパートに一人でいるのだろうか。アダムの心に不安の靄がかかりだした。
上級社会で育った、あの子どもが、スラム街の奥に入り込んでしまったら……どんな悲惨な目に遭うかわかったものじゃないぞ。
イカルを一人にさせちゃいけない。一刻も早く、イカルを保護しなければ!
焦ったアダムの目の前の扉が開いたのはその時だった。地下10階から昇って行ったエレベーターが地上に到着したのだ。
「ほら、ぼんやりしてないで、エレベーターを出て正面玄関まで行って。そこに車を待たせてあるから」
リア・バリモアの声に急かされて、アダムは車椅子の背を押して外に出た。地下のショッピングセンターから続く遊歩道の向こうに黒いワゴン車が止まっている。その運転席から降りてきたスーツ姿の男が視界に入って来た時、アダムは切れ長の瞳を細めて、ちっと舌を鳴らした。
その男はルナシティ警察本部の刑事課部長。
アダムの直属の上司だった。
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