第26話 最悪の日
「怪我人は救護班に任せて、そいつは、とりあえず、留置場で頭を冷やさせろ!」
顔面を血に染めた監視官が、担架に乗せられて連れ出されてゆく。彼に暴行したアダムは警備官に両脇を抱えられて、放心状態で首をうなだれた。もう抵抗する力も意志もなかった。
けれども、ふと視線を感じて前を見ると、管理課の女性係員が小型のホワイトボードを彼の方に差し出していた。黒字で文字が書いてある。
Sabrina 924811554
サブリナ……彼女の名前と……セルフォンナンバーか。
”覚えて。すぐに”
彼女は目でアダムにそう訴えかけていた。そして、他の職員がそれに気づく前に、すぐにボードを消してしまった。
騒然とした監視室のモニターには、仕事を終えてデイブレイク河から去って行く救助ヘリの映像が映し出されていた。
― 救助隊より報告。河に流された男女を発見し救出した。二人とも心肺停止の状態で、男性には背中にクロスボウの矢が刺さっていた。救命処置を施したが、蘇生の見込みはかぎりなく低い。現在、指定病院へ搬送中だ ―
救助ヘリから発信された報告のアナウンスが、摩天楼の40階に虚しく響いた。それを後ろに聞きながら、アダムは連行されていった。
ジュリエット……
人生のすべてが終わった気がした。
* *
最悪の日から2日が経った。だが、ルナシティ警察内外で、新人刑事、アダム・M・フィールズが監視課で起こした暴行事件を知る者はほとんどいなかった。署内には
だが、アダムの身柄は相変わらず、警察本部の地下1階の留置所の独居房にとどめられていた。そこで、事件の聞き取り捜査があったかどうかも分からなかった。内外を通じて、アダムは完全に遮断された空間にいたのだ。
* *
ルナシティ警察本部の地下10階 ― 重犯罪拘置所のリア・バリモアの部屋で、 セルフォンを取ったリアは瞳を輝かした。連絡してきたのは、アダムの上司でリアが買収した男だった。
「それで……いったい、あのスラムの青年は何をやらかしたの?」
監視官を血祭りにしたって?
リアは大声で笑った。
「あらあら、それで、アダムくんは、どこに収監されているの?」
「地下1階の留置場です。奴の取り調べはまだ誰も行っていません」
男は答えた。
「あらぁ、ここの上じゃないの。なんて不運? いえ、幸運な子」
リアは嬉しそうに微笑んだ。終身刑囚のリアが収容されている重犯罪拘置所は、一般人が想像するような牢獄ではなく、金にモノを言わせてリアが手に入れた、寝室やダイニングルームを備え、隣接するルナステート88のショッピング街にも自由に出入りができるVIPルームだった。
アダムが追手をまいて、そのVIPルームに飛び込んできたのも2日前の深夜だった。彼女の姉のベラが関与した人身売買の証拠のファイルを渡した後、アダムは、
”ここにはまだ、外へ出られる出口があるだろ”
そう言って、本署へのエレベーターに乗りこんだっていうのに……あの後に、彼はなぜ、監視課なんかに、行ったのだろう?
すると、セルフォンからまた、アダムの上司の男の声が聞こえてきた。
「何でも、デイブレイク河に流された恋人の救助がぞんざいだったから怒ったらしいですよ。 けど、笑っちまうのは、その恋人は別の男と痴話げんかで、二人で河に落ちたんだそうで」
その時、リアは思い出した。アダムの恋人って……彼と一緒にリアを騙して逮捕した、あの時のスラムの少女かと。けれども、別の男と痴話げんか? あの二人は、ベタベタと惚れ合っているところを私に見せつけていたのに……リアは少女の真っすぐな視線を思い出し、少し首を傾げた。
「……で、デイブレイク河からヘリで救助された二人はどうなったの?」
「二人とも指定病院に運ばれましたけど、死亡が確認されたようです」
「ふぅん、そうなの」
つまらなそうな声を出したリアに、上司の男が言った。
「でも、男の方の背中にはクロスボウの矢が刺さってたっていうんだから、スラム街の奴らがやることは、さっぱり理解できませんな」
「クロスボウの矢ですって!? スラムじゃそんなモノは手に入らないでしょう」
今は殺人犯として収監されていても、リアは元々はルナシティ警察の敏腕刑事だ。刑事事件にはそれなりに感が働く。今の話は単なる男女の痴話げんかにしては腑に落ちないことが多すぎる。それに、アダムに何の処分も下されていないままなのは、この事件を盾にとって、姉のベラが彼を何か政治的なことに利用するつもりなのかもしれない。
リアは少し考えて、電話口の男に言った。
「分かったわ。ああ、ちょっとお願いがあるんだけど。彼をここへ……いえ、私が直接、あちらへ行くわ。エレベーターを地下1階に動かして。そして、彼の部屋には誰も近づけないで」
リアは唇をなめた。恋人を亡くして、しょげかえってる彼の顔を見るのが楽しみだった。
あのぎらついた瞳が涙に暮れているところが見れるなんて……
それは、けっこうな余興になるかもね、と。彼女は冷ややかに笑った。
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