第23話 もう一人のイカル
鍵のかかっていなかったジュリエットのアパートのドアを開けると、マッドは狂ったような声で叫んだ。
「あのガキはどこだ!くそっ、逃げられたのか」
ジュリエットは必死に冷静を装いながらも、ほっと胸をなでおろした。手探りで送った ”に げ て”のメッセージ。あれをイカルはちゃんと守ってくれたんだ。
イカルはアダムが関わった ― エバンス家殺人事件 ― で彼が保護した子どもだ。けれども、世間ではイカルは自殺し、大富豪のエバンス家は没落したことになっている。マッドにイカルを渡してはならない。この男にあの子の正体が知れたら、どんな風に利用されるかわかったものじゃない。
だが、ジュリエットを突き飛ばして部屋に入ると、マッドは荒々しく部屋を荒し始めた。
「嘘をつくな!子どもの服や靴! 私物がこんなに残ってるじゃないか。奴をどこに隠した?」
マッドの瞳は、薬物中毒で赤く充血し、細かな血管がはっきりと浮かび上がっていた。彼はアパートのトイレや浴室を巡ってイカルを探し始めた。
ここにいては、私も危ない……今のうちに逃げないと。
ジュリエットはマッドの隙をついて外に出た。彼女の勤め先の病院なら深夜でも逃げ込める。けれども、今夜の彼女はアダムとのデートのためにドレスアップしていた。そんな姿で、与太者たちがたむろするスラム街に入ることは自殺行為に等しかった。
一瞬、考えてから、ジュリエットは街はずれの海につづく川へ向かった。
深夜のスラム街をジュリエットは必死で走った。道は暗く、靴を履かずに飛び出してきた足の裏に道路に落ちたガラスの破片が突き刺さって痛い。それでも、足を止めるわけにはゆかなかった。
「早く病院へ逃げ込まなければ! ぐずぐずしていると、マッドが追いかけてくる!」
息が弾んで心臓が壊れてしまいそうだった。背後に、今にもマッドの怒号が聞こえてきそうで、ジュリエットの心は震えた。
向こう岸に目指す病院の窓の明かりが見えてきた時、ジュリエットは橋の上で足を止め、ほっと胸を撫で下ろした。
だが、弾む息を整えようとした時、軋んだような車のブレーキの音が耳元に響いてきたのだ。そして、City Cabで彼女を追いかけてきていたマッドが、車から降りてきた。
彼の狂気に満ちた目。ジュリエットは恐怖で後ずさった。
「ジュリエット、逃がさないぜ」
マッドはジュリエットを捕まえると、彼女の服の肩を引き裂いた。ジュリエットの肩にある蔦の文様。それは荒れたスラムの雰囲気に流されて、過去にマッドとお揃いで彫った刺青だ。嫌がる少女を橋の欄干に押し付けながら、男は言った。
「これは俺たちの絆だと言ったろ。絶対に絆は切れない。どちらかが、くたばるまではな。ジュリエット、それとも俺と一緒に地獄に堕ちるか? 」
「離して!誰があんたなんかと」
「よく言うぜ。前には、俺とつるんでいたくせに。ここにお前が来るのだって、俺にはお見通しだ。それに、お前だって、上からの命令でアダムに近づいたんじゃないのか。ルナシティ警察に入ってからも、色々とあいつに情報を流したり集めたり、色々とやってたじゃないか」
「リア・バリモアの件を言ってるの? ちがうっ、あれは、アダムのためになると思って……」
だか、マッドは歪んだ笑みを浮かべながら、ジュリエットに言った。
「お前がどう思おうと、それは、ルナシティの上層部の意思だ。お前は裏切り者だ。アダムにとっても、この俺にとっても」
マッドはジュリエットの腕をねじあげると、懐からいつも使用している注射器を取り出した。
「止めて!私にそんなものを、使わないで!」
助けて……助けて! アダム!
ジュリエットはアダムの名を心の中で叫んだ。だが、アダムは今、ルナシティにいる。ほんの数時間前に彼と一緒に見た摩天楼の輝きが、暗闇の中に消えてゆくような気がした。彼女は、彼の温もりを感じたいと思った。声を聞きたいと思った。だが、それはもう叶わないかもしれない。
ところが、意識が朦朧としたジュリエットを抱え、マッドが彼女をCity Cabに運ぼうとした時、彼は肩に焼けつくような痛みを感じたのだ。驚いて目を向けると、銀色の弓矢が自分の右肩に深々と突き刺さっている。シャツの袖に浮かび上がった赤い染みが徐々に大きく広がってゆく。
何だ、これは? いったい、何が起こってる?
あまりの唐突さに現実が受け止めきれない。よろめきながら顔を上げると、狩猟用のクロスボウを手にしながら、こちらを狙いすましている子どもが立っていた。
「お前はっ……?」
冷めざめとした青い瞳には、軽蔑と愉悦の混じりあった感情が浮かび上がっている。
「お、お前……イカルか?」
「ジュリエットを離せ。さもないと……」
イカルはマッドに二本目の矢を向けると、冷たい声で言った。
「殺すよ」
「殺すって俺をか?そんな真似をしてただで済むと思ってんのか」
「平気だよ。だって、ここはスラム街でしょ。人が死ぬなんて珍しくもないって、前にアダムが言ってたもん」
マッドの肩に背負われたジュリエットは、朦朧とする意識の中で、そんなイカルの姿を見ていた。イカルは彼女が可愛がっていた9歳の少女のはずだ。けれども……、
あれは……あの男の子は誰? あれは、イカルの姿をしていても、イカルじゃない……。
マッドが怯えた声をあげた。
「よせ、分かった。い、今、ジュリエットを離すから。ちょっと、待て」
だが、次の瞬間、彼はジュリエットをかかえたまま、そばにあったCity Cabに逃げ込もうとした。
それと同時に、イカルはマッドの背に向けて、クロスボウの弓矢を放った。
「殺したって平気。だって、ここはスラム街だもん」
少年の心のイカル。彼にとっては、マッドの命を奪うことに何の躊躇いもなかった。それは、アダムの愛するジュリエットを取り返すためなのだから。
もし、ジュリエットを失うようなことがあったら、アダムが悲しむ。アダムが泣く。アダムの悲しい顔なんて、僕は見たくもないんだ!
その思いが少年のイカルを急き立てた。
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