第19話 摩天楼の影
「すごい……まるで、光の海の上に立ってるみたい」
レストランを後にして、アダムとジュリエットがやってきた88階の展望デッキ。見下ろす街には様々な色の光が瞬いている。ルナシティの摩天楼の夜景は、息を飲むほど美しかった。
真夏とはいえ、ルナステート88の最上階に吹く風は強くて冷たい。
アダムの腕につかまりながら、ジュリエットは、眼下の景色にため息をもらした。
けれども街の一角だけが、穴を空けたようにぽっかりと暗闇に覆われている。その場所を指さして、ジュリエットは顔を曇らせた。
「アダム……あそこって?」
吹き飛ばされそうなジュリエットの肩に腕を回して、アダムは低く言う。
「あれが、俺たちの街。スラム街だ」
ジュリエットは黙って目をそらすと、その視線を夜空に向けた。そこには、彼らが先ほどまでいた高級レストラン『
それは、半分が明るく、半分が暗い片割月だ。
ジュリエットがため息をつく。
「あの月の暗い部分がスラム街なんだわ。明るい側にぴったり寄り添って、それでも、光は届かなくて……けど、スラムは月とは全然違うわね。半月はやがて満月になるけれど、私たちの街は暗いままで夜を迎える。ずっと、ずっと……」
アダムは何も言わずに、月を見ていた。それから、静かに語り始めた。
「なぁ、ジュリエット、なぜ、ルナシティのような繁栄した都市の極近に、スラムのような退廃地域が出来ると思う? 」
「……え? 分からないわ。だって、そんなことを考えたこともないもの」
「スラム街は、繁栄の街に夢を見て、夢に破れて、どこにも行けない人々の吹き溜まりなんだよ」
ジュリエットは、泣き出しそうになる気持ちを抑えきれず、肩に回されたアダムの腕に頬を寄せる。
「それは俺たちの親か、祖父母か、この土地に移住して来た者たちは、見誤っていたんだろうな。ルナシティに来さえすれば、何か素晴らしい生活が手に入るだろうと夢を見て。最新技術どころか、学校教育さえろくに受けていない人間が、超近代的な情報都市に受け入れてもらえるはずがないのに。職を得ることも叶わず、かといって、別の場所に行く金もなく、街の近くに逃げ場を作り……それがスラムになった。どんなに惨めでも、苦しくても、一度堕ちれば、這い上がれない。行き場を失った者たちは犯罪に手を染め、ドラッグや酒に溺れた。そんな人生を歩むのが嫌で、俺はジュリアに人生を逆転させると誓って頑張ってきたんだ。けど、ルナシティ警察の入所が叶った今でも、俺には分からないことばかりだ……」
アダムはジュリエットを抱き寄せた。こんな理不尽な世界で、彼女がいなければ、自分は生きていけない。彼は彼女の耳元で囁いた。
「こうやって、ジュリアを抱いていないと、俺は不安でたまらない。自分の進んでいる道に間違いがないとは言い切れなくて」
ジュリエットは、アダムの言葉に心が痛んだ。彼女にとっても彼は、この世界で唯一の光だった。ジュリエットは、アダムの胸に顔を埋めて言った。
「アダムの幸せが、私の幸せ。何があっても、それだけは変わらないから」
ジュリエットの体が微かに震えているのをアダムは感じた。彼女もまた、自分と同じように苦しい思いを背負っている。アダムはジュリエットの髪に手を触れると言った。
「ジュリア、俺の傍にいてくれ。お前がいれば、どんな過去にも負けない。お前と一緒なら、どんな現実にも挑める。たとえ、どんな明日が来たとしても」
半欠けの月の光が、二人の頭上に輝いていた。その光の下で、アダムはジュリエットに口づけた。
深夜の摩天楼に映し出される二人の影が一つになった。彼らは、この理不尽な世界の片隅で、互いに求め合い、この世界に反抗するかのように愛し合っていた。
* *
午後11時を回っても、近未来都市ルナシティの灯りは消えることはない。ルナステート88の1階まで降りてきたアダムとジュリエットは、人通りが少ない裏通りの
「そろそろ、日付が変わるな。これから、どうする? 早番は終わったんだろ。俺のアパートに泊ってく? 」
ジュリエットも今夜は、アダムと一緒にいたかったが、
「でも、今日はイカルに留守番させてるし、ちょっと気になることもあるから、帰らないと……」
「気になることって? まさか、イカルが何かトラブルでも起こしてんのか」
「えっ、トラブルなんて、全然ないよ。イカルはいい子! でも……今日はやっぱり帰るね」
腑に落ちない顔をしたアダムを見て、ジュリエットは焦った。彼は敏い。余計なことに巻き込んで、これ以上、心配をかけたくない。
「あっ、でもねっ、来週は絶対にアダムのアパートに泊るから! 仕事も家事も全部、片付けて、準備万全で泊まりに来る!」
まくしたてるように言うジュリエットの表情が可愛くて、やっぱり帰したくないなと、アダムは思った。けれども、無理に彼女を引き留めるようなことはしなかった。
* *
City Cabの乗り場まで見送ってくれたアダムを振り返ると、ジュリエットはバッグから、ずっと出すのをためらっていた紙袋を取り出した。
「アダム、これ……ずっと、渡さなきゃって思ってたんだけど……私が偶然に手に入れたあの火事で亡くなった患者の持ち物で……私が持っていちゃいけない物だと思って……」
あの火事でって……? 焼け落ちたフィールズ児童養護施設のことを言っているのか?
紙袋を受け取って、眉をひそめたアダム。開いて中身を見ようとした彼を、ジュリエットは慌てて止める。
「あっ、それを見るのは、アパートに帰ってからにして。次はアダムにいつ会えるか分からないから、仕方なく持ってきたけど、今夜だけは仕事のことは考えないで、笑って私を見送って」
そう言って、アダムの頬にキスすると、ジュリエットはCity Cabに乗り込んだ。
「運転手さん、デイブレイク駅までお願い」
そして、アダムの姿が見えなくなるまで何度も手を振り、ジュリエットはイカルの待つスラム街に帰って行った。
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