第17話 上弦の月

 アダムがルナシティ警察の拘置所でリア・バリモアに会うと言って、アパートを出ていったのは、二週間前のことだった。

 ジュリエットは、その間ずっと音沙汰のない彼のことが心配で仕方なかった。あの女は、自分を罠にかけて逮捕した新人刑事を恨んでるに決まってる。アダムは、リアに何かを仕掛けられて身動きが取れないのではだろうか。そんな不安がつのった時、


 ”明日は非番だろ? 晩飯、おごるよ”


 アダムから届いた短いメール。ジュリエットの心は、ほっとしたと同時に小躍りした。忙しくて出来なかったジュリエットの誕生日祝いに、アダムが「今度、ルナシティで食事でもしよう」と言った言葉。それを覚えていてくれたのがわかったから。


*  *


 次の日。スラム街に隣接したアパートに西日が落ちる頃、ジュリエットの部屋には賑やかな声が響いていた。

 ジュリエットはクローゼットから一着のワンピースを取り出した。淡いグリーンのワンピースだった。ルナシティのブティックで買ったもので、まだ一度も着ていない。スリットから少しだけ見える足は大人っぽく、花柄の縫い取りがある襟ぐりは清楚で可愛らしかった。


 ルナステート88のレストラン『上弦の月プルミエ・カルティエ』に午後8時だなんて……高級レストランでしょ。この恰好で大丈夫かなぁ。


 ワンピースを着て鏡に映った自分の姿を見ていたジュリエットに、傍にいたイカルが歓声をあげた。  


「かわいいっ! やっぱり、そのワンピースはジュリアにぴったりだったね。アダムも、スタイル抜群の姿に惚れ直すんじゃないの」


「イカル、惚れ直すだなんて言葉、どこで覚えたの? でも、褒めてくれて、ありがとう。アダムは女の子の服装になんて関心なさそうだけどね」


「う~ん、そうかなぁ」


 顔をしかめたイカル。ジュリエットはくすくす笑って少女の顔に目を向けたが、すぐに真顔になって言った。


「イカルがカードで支払った、このワンピースのお代、次のお給料が出たら、ちゃんと返すから。お揃いで買ってくれたパレッタの分も」

「えっ、いらないよ。僕からジュリアへの誕生日プレゼントなんだから」

「そういうわけにはゆかないわ。親が残したお金があるなら、無駄使いはダメ!」

「いいんだよ。ジュリアのアパートにタダで住まわせてもらってんだから。そのお礼も兼ねてんだから」

「だめよ!そんなこと。アダムに叱られてしまうわ」

 

 すると、イカルは突然表情を硬くして、ジュリエットに言った。


「光熱費に、僕の食費や雑費。アパートの家賃はアダム持ちだとしても、ジュリエットの安月給だけじゃ、とてもやってゆけないでしょ。アダムだってそうだよ。二人はいつか結婚するんでしょ。なら、貯金だってちゃんとしとかないと。僕のことなら気にしないで。財産管理はきちんとしてもらってるから」

 

 得々と彼女に言って聞かせる少女。その口ぶりはとても大人びていて、とても9歳とは思えない。それに、財産管理はしてもらってるって……? この子って、天涯孤独の一文無しじゃなかったの?


 イカル・エバンス……エバンス家といえば、ルナシティでも有名なお金持ち。


 ジュリエットはイカルが大富豪の子どもなのは知っていたが、アダムからは、豪邸で起きた殺人事件の後はエバンス家は消滅し、その全財産は政府に没収されたのだと聞いていた。まさか、この子には、私やアダムの他に手助けしてくれる人がいるってこと?

 

「一体、誰が……?」


 戸惑うジュリエット。だが、イカルは時計を見ると、


「ほらほら、早く行かないと、アダムとの約束に遅れちゃう。そろそろ、呼んだCity Cabシティキャブがアパートの下に来る時間だよ」


「えっ、車まで呼んだのっ、イカルが?」


「当たり前だよ。だって、その綺麗な恰好でデイブレイク駅まで行くのは、さすがに危険でしょ。ここは治安はましな方っていったって、スラムだよ、分かってんの」


 そういって、イカルは強引にジュリエットの背中を押すのだった。


*  *


 ジュリエットは、イカルに急かされるままに、アパートの下に停まっているCity Cabに乗り込んだ。運転手はジュリエットの目的地を聞いて、ルナステート88へ向かった。


 ルナステート88は、ルナシティの中でも最も高級なエリアだった。

 幾つもの車のテールランプが、流れ星のように、光の帯となってハイウェイを通り抜けてゆく。

 徐々にCity Cabの前に近づいてくる摩天楼の景色に、ジュリエットは圧倒された。それは、夢のような美しさだった。


 そこにあるレストラン『上弦の月プルミエ・カルティエ』は、星付きシェフが腕を振るう有名店だ。

 ジュリエットはそんな場所でアダムとデートすることに緊張していた。彼はどんな格好で待っているのだろうか。彼は今日の自分をどんな風に見てくれるのだろうか。


 City Cabがルナステート88の入り口に到着した時、エレベーターホールの係員がジュリエットに言った。


「お客様、ここから80階より上のエレベータに乗るには、はセキュリティチェックがあります。身分証明書をお持ちですか?」

「えっ、身分証明書? あ、あの……」


 ジュリエットは慌ててしまった。身分証明書? そんなもの、私は持ってないわよ。


「すみません、身分証明書がありません」

「じゃあ、残念ですが、88階には行けませんよ」


 係員は冷たく言った。ジュリエットはショックを受けた。アダムとのデートが台無しになってしまう。


「どうしよう……」


 その時、


「ジュリア、遅れてごめん」


 エレベーターホールの向こうから、見知った青年が現れた。スーツ姿のアダムだった。


*  *


「ほんっとうに、びっくりしたんだから。レストランに入るにも、セキュリティチェックがあるなんて」

「言うのを忘れてた。色々と面倒なんだ。店はこっちだから、俺に着いて来て」

「心臓が止まるかと思ったんだからね」


 そう言って、口を尖らしながらも、ジュリエットはで、ウェイターから案内されたテーブル席から見える景色に息を飲んだ。


 すごい! ここから見る景色は、まるで、ルナシティにある光を全部、ここに集めたよう。


 同時に哀しい気分にもなってしまった。どう考えても場違いな自分と違って、アダムは平然とこの場に溶け込んでいたからだ。

 けれども、


「ジュリエット、今日は俺の無理を聞いてくれて、ありがとう。えっと、その服、よく似合ってるよ」

 

 アダムは、言葉に詰まりながらも、真剣な表情でそう言った。ジュリエットは、彼の瞳に映る自分の姿を見つめながら、心が高鳴っていくのを感じるのだった。


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