第9話 名のない夢~ハメルンの笛吹き男


 名無しの子ども。


 アダムは、名前すらつけてもらえなかったその子どもを見て、胸が痛んだ。


 この子どもは、生まれてすぐに親に捨てられてフィールズ児童養護施設に保護されたのだろう。同じような境遇にあっても、ジュリエットは、名前と生まれ日だけは知っていた。自分はラストネームのアダムという名前と、たとえ、自分を殺そうとした母であっても、彼女の顔は記憶している。だが、名前や出自を知ることで幸せになれるという保証はない。

 イカルは、大富豪の子どもとして生まれたが、親から酷い虐待を受け続けていた。


 アダムは、複雑な気持ちのまま、名のない子どもに視線を向けた。頬にある生々しくひきつった傷。その子が児童養護施設から逃げ出した理由は、聞かずとも容易に察することができた。


「……で、お前は、フィールズの悪環境に耐えかねて、このマンホールに住み着いたってわけか、だが、ここだって、口が裂けてもいい環境とは言い難いと思うが」


 汚れた顔の子どもが、壁の割れ目の向うからアダムを手招いて、くすぐったそうな笑みを浮かべた。


「とにかく、こっちに入って。僕の家を見てみてよ」


*  *


「へえ……」


 入るのにコツがいると言うだけあって、身をよじって入り込んだ場所は、秘密基地のような場所だった。アダムが意外そうな声を出したのは、そこはゴミ溜めではなく、思いの外、不潔さを感じなかったからだ。

 床には段ボールをきっちりと敷き詰め、どこからか運び込んできた食器類や毛布まで置いてある。名無しの子どもは、電気ポットに水を入れるとアダムに言った。

 

「そこに座って、お茶を入れるから」

「いや、俺はいらない」


 部屋は狭く、頭が天井につきそうだった。

 だが、


「すごいな。この部屋には電気や水道が通ってんのか」


 当然、それは違法行為だ。こいつらは、電線と水道管を勝手にマンホール内に引き込んで、無料でそれらを使ってやがる。こんな子どもにそんな細工が出来るとは思えない。アダムは、考え込む時の癖で、胸ポケットに入れたIQOSアイコスに手を伸ばそうとした。だが、今はそれを止めた。


「……で、お前はこの部屋をどうやって借りたんだ? 誰からだ? 何を担保にしたんだ?」


 アダムの声は低く、詰問するようだった。名無しの子どもは、彼がルナシティ警察の刑事だということを思い出したのか、はっと顔を強張らせた。


「ぼくはマッドからここを借りてるんだ。彼はフィールズ出身で、今は消防士だ。  彼は色々と知りたがるんだよ。ここに住む者のこととか、マンホール内の情報とか。それと交換に、ぼくはここで暮らせるんだ」


 マッド……!あの胡散臭かった消防士か。どこかで見た顔だと思ったら、あいつもフィールズの出身者だったのか。

 児童養護施設では、一日の時間のほとんどを主任教官マスターに指示された学習と、外部から来るチューターとの授業に費やしていたアダムは、入所者の一人一人に気を配るような余裕はなかった。


「それだけじゃない。お前はマッドに薬も調達してやってんだろ」


 名無しの子どもは震えていた。


「仕方ないんだってば! 外に出れば、下っ端の警察官や自警団に狙われる。この中でも、子どもじゃない大人の浮浪者に襲われる。つい先だっても、マンホールに住んでた子どもが火をつけたられたんだ。マッドは約束したんだ。言うことを聞けば、ここでの安全は保証するって。生きるためなんだよ。分かっておくれよ」


「なら、せめて、お前は薬をやめろ。薬を売りつけるようなヤクザ者には近づくんんじゃない!」


 アダムは分かっていた。この子どもも薬に頼っている。痩せた体は栄養不良のせいだけじゃない。マンホールに住む者たちが薬を使うのは不安で眠れないからだ。自分たちの暗い未来を考えることから逃げたいからだ。薬をやっている時だけは、ハイな気分になれる。それだけが救いなんだ。


 名無しの子どもは、今にも泣きそうな顔をしている。憧れていたアダムを暴徒から救って有頂天になっていた時の気持ちとは惨めさが彼の心に広がっていった。

 アダムにしてみても、こんな小さな子どもを責め立てるのは後味が悪い。すると、重い雰囲気に耐えかねたのか、子どもの方から話題を変えてきた。


「……ねぇ、聞かせて。アダムは……なぜ、ルナシティの刑事になろうって思ったの」


 一瞬の沈黙。


「なぜって……エリートに憧れた……からかな。勉強して、何としてでも採用試験を突破して、スラム街の惨めな生活から俺は這い上がりたかった」


 それに、ルナシティでも指折りの警察集団の一員になって、上まで上りつめれば、ジュリエットや他の奴らを守ってやれるのではないかって、そんな生ぬるい憧れもあった。

 

「だが、実際には、かなり違っていたけどな」


 苦い笑いを浮かべる刑事に、名無しの子どもは不思議そうな眼差しを送る。彼は、段ボールで作った机の奥に手を入れると、その中に入れてあった宝物を、アダムに差し出した。それは、玩具の笛だった。


「笛? 何でこれを俺に?」


 すると、子どもは言った。


「ねぇ、アダムは”ハメルンの笛吹き”って童話を知ってる? 」

「……いや、あまり詳しくは。俺は童話のたぐいはほとんど読んでこなかったから」

「へえ、意外。ぼくはアダムは何でも知ってるのかと思ってた」


 そのことが、緊張感を緩めたのか、名無しの子どもはまた饒舌に話を始めた。


「”ハメルンの笛吹き”って話はね、悪い病気が広まった街に現れた笛吹き男が、最後には不幸な子どもたちを、幸せの国に連れて行ってくれるって童話なんだ。ぼくはこの話が好きで……だからね、ぼくはアダムにこの笛を持っていて欲しいんだ」

「おいおい、冗談じゃないぞ。止してくれ。そんな童話にかこつけて、俺を幸せの国への笛吹き男にしようだなんて……そんな夢物語を語るのは」

「ううん。アダムはきっとやってくれる。ぼくは信じてる。だって、アダムはぼくの憧れの人なんだから」


 真っすぐな瞳に見据えられたアダムは、困惑した。だが、差し出された笛を突き返すわけにもゆかず、仕方なくそれを胸ポケットにしまうのだった。


「俺はもう行く。礼を言っとくよ。お前は間違いなく俺の命の恩人だ」


 実現できそうもない夢を託されてことに居たたまれなくなって、立ち上がったアダム。そんな彼に子どもが言った。


「もう少し先まで、ぼくに案内させてよ。そこまで行けば、別の場所に出れるマンホールの口があるから」


 再び、出入りにコツがいる壁の隙間を二人で抜け出てから、名無しの子どもはアダムに問うた。


「ねぇねぇ、どうだった? ぼくの家はなかなか良い場所だったでしょ?」

「……ああ、良い住処だったよ」


 そう答えたアダムは、無邪気な子どもを振り返ると少し笑って言った。


「俺がこのマンホールで借りるとしたら、やっぱりあの部屋だろうな」


 それを聞いて、名無しの子どもは、心底、嬉しそうな笑顔を浮かべて、アダムを見つめるのだった。

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