第10話 イカルとジュリエット

 暴動は、地元警察の介入もあり大規模化は免れたものの、スラム街の路上では怪しげな連中が跋扈ばっこし、殺人や強盗などの凶悪事件が起き続けていた。

 名無しの子どもと別れてから、ジュリエットのアパートに向かっていたアダムは、路上に横たわる男の死体に目をやり、眉をひそめた。


「……で、被害者の身元は割れてんのか」

「三流誌の記者だそうです。通報があって我々が駆けつけた時には、もう死んでました。血溜まりに浮かんで」

「……凶器は見つかったのか?ナイフか何かだろう」

「いえ、違います。この傷跡からすると、弓矢でしょうね。引き抜かれて見つかってはいませんが」

「弓矢だって? 」


 アダムは腑に落ちない顔をした。

 殺人事件自体は珍しくないが、弓矢が凶器とは、このスラム街以外でもほとんど聞いたことがない。


「あの……あなたはルナシティ警察の方ですよね。その成りはどうしたんです? こんなスラム街に関わってもろくなことがありませんぜ。場末の現場処理は、我々に任せて、エリートは中央へ帰った方が身のためだ」

 

 アダムがスラム街出身などとは、彼らには想像もつかないのだろう。

 地元の警官は汚職にまみれていた。そのことを勘ぐられては拙い。彼らは本署から来た刑事に対して警戒心を隠そうとしなかった。


 しかし、そう簡単に引き下がるわけにはいかない。後で彼らに適当なことを報告されたりしたら、アダムも、自分の立場が危うくなるかもしれないのだ。マンホールから出てきて間もないというのに、こんなトラブルに鉢合わせるなんて。


 結局、アダムがジュリエットのアパートに戻れたのは、夜も更けてからだった。


*  *


「あっ、アダムが帰ってきたっ。おかえりなさいっ」


 嬉しそうに玄関に駆け寄ったイカルだったが、アダムの姿を見た瞬間に顔をしかめ、


「何、この臭い! それに、どうしてそんなに汚れてるの? ……まるで、ドブネズミみたいじゃない」

「仕方ないだろ。ドブネズミがわんさかいる場所にいたんだから」

「どういうこと? アダムは火災現場に行ってたんじゃなかったの? 」


 いちいち説明するのも面倒くさい。アダムは部屋を覗いて、


「ジュリエットは? まだ仕事から帰ってないのか?」


 時計を見ると、もう夜の11時をまわってしまっている。


「うん。でも、さっき、電話があって、もうすぐ帰れるって。あの火事のせいで、ものすごく忙しかったみたいだよ」

「そうか……とにかく、シャワーを貸してくれ。このままじゃ、ジュリアにどやされる」


 アダムは部屋に上がるとシャワールームに向かった。脱衣室で汚れた上着を脱ぎ、それを洗濯機に放り込む。その時、ふと後ろの人影に気づき怪訝な顔をした。


「イカル、何で付いて来るんだ。俺はシャワーを浴びるって言ってんだろ」


 アダムを見つめる青い瞳が冷たい光を放っていた。だが、洗濯機に歩み寄った瞬間、イカルは、突然、頬を紅潮させ、まくしたてるように喋り出した。


「アダム、洗濯するなら、上着の襟のバッジは外さなきゃ駄目。それに、ポケットに入ってる物も出さなきゃ。ズボンの泥はシャワーで流してからでないと、洗濯機が泥だらけになっちゃうし。ああっ、もう、いいわ。脱いだ服はこっちでやる。だから、全部、私に頂戴」


「イカル……?」


 その物言いはジュリエットの口調とそっくりで、アダムは一瞬、自分の耳を疑ってしまった。イカルはアダムの戸惑いなど知らぬ顔で、洗濯に夢中になってしまっている。


 その時、アパートの玄関の鍵が、がちゃりと開く音が聞こえた。


「ただいまー。何っ、この臭い? イカル、起きてるの?」


 仕事を終えた本物のジュリエットが、帰ってきたのだ。


「ねぇ、もしかして、アダムが帰って来てるの? 一体、何があったのよ」


 その声が聞こえたとたんに、イカルはアダムをシャワールームに残して、ジュリエットの前に飛び出していった。イカルはジュリエットに抱きついて、笑顔を見せる。


「ジュリア、お帰り。アダムがね、仕事で汚れちゃったんだって。だから、ぼくら、今、お洗濯してたんだ」


 普段通りの幼さの残るイカルがそこにいた。


「えっ、こんな夜更けに洗濯? まったく、アダムったら、子どもに何やらしてんのよ。後は私がやるから、イカルはもう寝なさい」


 慌てて、シャワールームに入って行くジュリエットの後ろ姿。ほどなく、聞こえてきた男女が話す声。イカルはその声に耳をそばたてる。


 きっと、アダムがジュリエットに叱られてるんだ。でもさ、あの二人は仲良しだから全然大丈夫。


 あれ? 静かになった……。


「そして、ジュリア姫とアダム王子は仲直りのキスをしました」


 なんてね。

 

 それ、何だか……わずらわしいよ。


「えっ、何、言ってんだよ。そんなことないし。だって、ぼくは二人が大好きなんだから」

 

 イカルは小さく呟きながら、自分の部屋に逃げ込んだ。    


 そうだ。ぼくはもう寝なくっちゃ。


 眠らないと、今みたいに心に響いて来る色々な声に押しつぶされてしまいそうだ。イカルはベッドに潜り込むと、目をぎゅっと固く締めて、心に念じた。


 眠れ。何も考えずに。

 今は、眠っているんだよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る