第8話 マンホールチルドレン
アダムは暴徒たちから逃げるために、マンホールに飛び込んだ。すると、
「蓋を閉めて!」
暗闇の中から、先ほどの声に急かされた。言われるままに蓋を閉じて息を殺す。頭上で暴徒たちの靴音が重く響き、地面が激しく揺れた。
頼む、見つからないでくれ。
心臓の鼓動がどくんどくんと耳まで届く。やがて、暴徒たちの足音が遠ざかっていった時、アダムはほっと息をつき、額に流れた汗をぬぐった。
「危なかった……あと少しで、捕まって叩き殺されるところだった」
脳裏に、アパートに残してきたジュリエットや、イカルの顔が浮かび上がってくる。俺自身だって、
その時、マンホールの下から彼の名を呼ぶ小さな影が目に入った。
「アダム、こっちだよ!」
子ども……か?
マンホールステップを下りた時、むせ返るような湿気が体を取り巻き、汚水とゴミにまみれた悪臭が鼻を突いた。そこは、何年も整備されぬままに使われている下水道のようだった。
暗闇に慣らそうと目を凝らした時、ローソクに火を灯した声の主の顔がアダムの前に照らし出された。
こけた頬をした男の子だった。歳はイカルと同じくらいだろうか。頬に一筋の傷があり、右耳の上が欠けていた。羽織っただけのよれたシャツから出ている浅黒い肌を見て、野良猫のようだとアダムは思った。目が合うと、その子は大きな瞳を嬉しそうに輝かせて、彼を手招いた。
「着いて来て。ここは酷いけど、ぼくの家はもう少し風が通るから」
「ぼくの家? まさか、お前、この下水道の中に住んでいるのか」
「うん」
膝まで汚水に浸かり、飛び交うハエの群れを掃いながら薄暗い下水道の中を歩いてゆく。干からびたネズミを踏んだ靴の感触が不快だった。打ちっぱなしの壁には、何のモノかも分からない悪臭を放つ染みがこびり付いている。
アダムは、壁からぶら下げられたビニール袋や、整備用の横道に重ねられた段ボールに目を向けた。そんな様子に気づいた子どもが言った。
「あのビニール袋はぼくの友だちのなんだ。ほら、ここって、いつ下水が流れてくるか分かんないから、ああやって、上にかけてないと、失くしちゃう」
アダムはその言葉に顔をしかめた。
下水道に住む子ども……こいつらは、いわゆるマンホールチルドレンってやつか。
スラム街には、そういう者たちがいて、警察が取り締まりを強化していることは、アダムも知っていた。
だが、彼がまだ児童養護施設にいた頃は多数派ではなかった。ここ1、2年の間に、スラム街の環境は、明らかにより酷くなっている。
「あのビニール袋には何が入ってるんだ?」
「う~んとね、歯ブラシとか、あとは吸引用の
「薬? お前の友だちも子どもなんだろ」
「……だって、あれがないと、ダメなんだ。不安で心が壊れそうになる」
閉口したままのアダム。重い雰囲気に耐えかねたのか、その子が、横道の上のひび割れた壁を指さして、わざと元気な声をあげた。
「アダム、ここの先がぼくの家なんだ! 来て。上で暴れてる奴らが大人しくなるまで、隠してあげるから」
横道に上がった男の子の体は小さくて痩せていた。けれども、やたらに親愛のこもった視線をこちらに向けてくるのが不思議だった。
「なぁ、お前って、さっきから、アダム、アダムと気安く俺のことを呼んでくれるけど、何で、俺の名前を知ってんだ?」
「え? だって、アダムは、すごく賢いってフィールズじゃ有名だったもん。今はルナシティ警察の刑事さんなんでしょ。すごいよ! ぼく、ずっと、アダムみたいになりたいって憧れてたんだ」
「フィールズ? フィールズ児童養護施設のことか……もしかして、お前もあの施設に保護されていた子どもか」
「うん、でも、全部、燃えちゃったね。せいせいした」
ケロリと、その子どもは悪びれもせずに、話を続ける。饒舌な語り口が彼が上機嫌なことを物語っていた。
「でも、アダムは、ぼくのことなんて知らないでしょ。ぼくは、あそこが嫌ですぐに逃げ出したから」
屈託のない笑みの裏に、差別と貧困の影が見え隠れしている。
自分と同じ浅黒い肌と黒い瞳。そのことで、アダムの父親は東からの移民に違いないと、児童養護施設の子どもたちから酷い虐めを受けた。当時を思い出して、アダムは気分が悪くなった。
それでも、黒い瞳の男の子は、憧れの
横道の上の壁の隙間に小さな体を器用に滑り込ませながら、その子が言った。
「ぼくの家に入るのは、ちょっとしたコツがいるんだ。でも、アダムなら大丈夫だよ。すぐにマスターできるから」
アダムは耳を澄ませて外からの音に気を配る。暴動の騒音はここまでは届かないのか、今は何も聞こえてこない。いや、もしかしたら、今頃は警察によって鎮圧されているのかもしれない。
だが、さっきの奴らがまだ、俺を探している可能性だってある。今はまだ外に出るのは危険だ。
仕方ないかと、アダムは男の子に倣って壁の隙間に足を入れながら、彼に問うた。
「お前、名前は?」
すると、男の子は、
「ないよ。そんなもん、生まれてからずっと」
ことも無げにそう答えた。
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