第5話 ジュリエットの不安

 火災の被害者が運び込まれた公立病院の前は修羅場と化していた。

 医者と看護士が走り回り、興味本位の野次馬が群がっている。酒とドラッグに酔って、わけの分からない言葉をわめいている連中までいて、辺りは人、人、人でごった返していた。

 ジュリエットは、煤だらけの怪我人にカメラを向ける記者を見て顔をしかめた。


「あんなマスコミまでやって来て……思った通りだわ。酷いことになってる」


 現場に行ったアダムは無事だろうか。火の中へ飛び込んで行ったりしてないだろうか。見かけよりずっと正義感が強く、無鉄砲な彼のことを思うと不安で息が詰まりそうになる。だが、今は仕事に集中しなければと、彼女は病院の入り口に駆けていった。その時、


「待てよ。ジュリエット」


 一人の男がジュリエットの前に立ちふさがったのだ。 黒地に黄色の反射布のラインが入った防火衣を着ている。背中には”ルナシティ中央消防署”のオレンジ色の文字ロゴ。高身長で、がたいは良いが、ところどころが白濁した鉛色の瞳には、不快感を覚えずにはいられない。

 

「”泥だらけのMudマッド”。ううん、”イカレ野郎のMadマッド”! こんな時に、消防士が火災現場を放ったらかして、何、油うってんのよ」

「おいおい、児童養護施設時代からの馴染みの俺なのに、酷い言われようだな。”速やかに出動するな。わざと遅れろ”が、上からの命令。俺はそれを忠実に守ってるだけだろうが」


 軽蔑を露にしたジュリエットの眼差し。それにも動じず、マッドは手にした赤いファイルを彼女に差し出してきた。


「何よ? それ」

「これは、火傷で病院に運び込まれた主任教官マスターが死守したファイルだ。俺はこれから一仕事あるから、お前が預かっておいてくれよ」

「えっ、マスターがこの病院に? 」

「ああ、さっき町の奴らが連れてきた」

「駄目じゃないの! 患者の物を勝手に持ってきたりしたら懲罰ものよ」

「あー、気にすんな。ついさっき、


「……」


 ジュリエットは言葉が出なかった。主任教官の死を聞いても、涙の一筋も出てこない。それどころか、背にのし掛かっていた重荷が一つ外れたかのように体がふわりと軽くなった。

 このマッドという男も、ジュリエット自身も……アダムも、幼い頃にフィールズ児童養護施設に保護され、育てられ、”選別”されて、主任教官マスターからの指導を受けた生徒たちだった。いってみれば、彼女とそのコネクションのおかげで、彼らは真っ当な職を得ることができたのだ。けれども……。


「マッド、そのファイルって……」


 ジュリエットは、男が差し出した煤だらけのファイルを手に取る。中を開いてみると、それは名簿のようだった。


 マッドが皮肉な笑みを浮かべて言う。


「そこに書かれているデータこそが、フィールズ児童養護施設の子供 ― 入所者たち ― の学力……いや、商品価値としての価格表だ。ジュリエット、そのトップにはお前の知ってる名前がきらっきらに輝いてるぜ」


 ”アダム・M・フィールズ”


 名簿の一番上に書かれたその名。ただ、その横に記された破格の金額は、彼の価値を値踏みし、それを商品として取引先に提示した金額としか思えなかった。

 黙り込んでしまったジュリエットに、マッドがせせら笑いを浮かべる。


「エリート揃いのルナシティ警察が欲しがるなんてなぁ、アダムは、汚れたスラムの空に輝く一番星! けど、ジュリエット、がっかりするな。その名簿に俺とお前の名前も載ってるぜ。お値段は、アダム君とは段違いで、お安ーいもんだ。しかしだ、 有難いと思わなきゃなぁ。安月給で長時間労働を強いられても、その名簿に載らなかった者たちは、みんな、知らぬ間に、施設を追い出されて、今頃はスラムのストリートチルドレンにでもなってるんだろうから」


 マッドの白濁した瞳が物言いたげに、ジュリエットを見つめている。


「このファイル……酷い。私たちを商品みたいに……」


 アダムのように支援者がいた者は別扱いなのかもしれない。……が、主任教官が施設の子どもたちを人手不足の業者に斡旋して金銭を得ていたことには、ジュリエットをはじめ、児童養護施設に暮らす者たちは薄々、気づいていた。

 けれども、実際にその証拠を目にしてしまうと、さすがに気分が悪くなる。

 

 マッドが言う。


「そのファイルのヤバさがお前にも分かっただろ。だから、俺が引き取りに来るまで、ジュリエット、それはお前が持っていてくれよ」

「何で私が……」

「だってさ、お前は裏切らない奴だよな。だから、いざという時のために、保険をかけとこうってことさ」

「……これで、誰かを強請る気なのね。私はそんな話には乗らないわよ」


 すると、にやりと広角を上げた消防士が、右手にした手袋を脱いで、甲に彫り込んだ蔦模様のタトゥーを見せた。その瞬間に顔を背けたジュリエットのTシャツの肩をマッドは無理やりに引っ張った。すると、彼女の肩に彼と同じ蔦模様のタトゥーが姿を現したのだ。


「蔦模様のタトゥーは”結婚(永遠の愛)” ”不滅” ”忠実” の証。ジュリエット、お前は俺と一緒にヤクって、よろしくやってた日々を忘れたんじゃないだろうな」

「……」

「はぁ、言葉も出ないってわけか。まぁな、超エリートのアダム君に乗り換えた日にゃ、俺なんかは邪魔だしなぁ」

「乗り換えただなんて……アダムと私のことをそんな風に言わないで! このタトゥーだって、場の雰囲気に飲まれただけで……別にあんたと一緒になるつもりで入れたわけじゃない!」


 二人は互いに見つめ合い、いら立ちと恐怖と憎しみが入り混じった表情をした。 

 ふんと鼻を鳴らしたマッドは、脱いだ手袋を再び右手にはめると、ジュリエットに向かって言った。


「まぁな、俺もお前も、上からの命令には逆らえない立場なのは分かってる。けど、お前とアダムが、あのスラムに似つかわしくもない子どもは、一体、誰なんだよ?」


 その時、火災現場の方向から怒号のような人々の声が轟いてきた。マッドは、待ってましたとばかりに、駐めてあった消防車の方へ身を翻す。去り際に彼は、もう一度、ジュリエットの方を向き直って言った。


「これ以上、余計な面倒事に首を突っ込むのは止めたがいい。質の悪い記者がお前のアパートの廻りを嗅ぎまわってたぜ」


 そして、表情を曇らせたジュリエットに赤いファイルを残したまま、彼は行ってしまった。

 ようやく、スラム街に響き始めた消防車のサイレン音。そのけたたましく、耳に刺さるような鋭い音が、ジュリエットの心に湧き上がった不安を余計に大きく広げていった。


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