第2話 アダムの戸惑い

「アダム、アダム、ねぇ、ねぇっ、アダムったら」

「イカル! 遊ぶのはパンを食べ終わってからにしなさい」

「だって、ジュリア、今、捕まえとかないと、アダムは次はいつ戻ってくるか分かんないよ」

「それとこれとは話が別。そうでしょ?アダムっ」



 ― お前ら、うるせぇ ―



 名前を連呼された青年は眉根を寄せて黙り込む。けれども、そのままでいると、ジュリエットの怒りの矛先は、自分の方へ向けられてしまいそうだ。

 アダムは小さく息を吐き、イカルの胸元を指さして、低い声を出した。


「パンの耳までしっかりと食べないと、それ、ジュリアのみたく成長しないぞ」


 一瞬の沈黙。自分の胸元に視線を落とし、慌ててパンを頬張りだした子供。ジュリエットが爆笑する。


「何だかんだと言っても、イカルの扱いはアダムが一番、心得てるのねー」


 それがどうしたっていうんだ? こいつに関わったおかげで、捜査課からパトロール課に降格させられて、俺の人生の歯車は大きく狂っちまった。

 苦い表情のアダムを慮ってか、ジュリエットが笑顔に陽気さを上塗って、彼の傍に身を寄せてきた。猫のような素早い仕草で、その手からIQOSを奪い取る。


「これは灰皿にポイっと。それでね、ちょっと、相談があるの」

「相談?」

「私の勤めてる公立病院で、入院中の子供たち向けに勉強の会を開いてるんだけど」

「……お前、まさか、そこにイカルを連れて行こうっていうんじゃないだろうな」

「さすがはアダム! 察しがいいわねー。だって、いつまでも、このアパートに閉じこもってちゃ、友だちだってできないし」

「友だち? 冗談じゃないぞ」


 下手をすれば、年端もゆかない子どもが麻薬密売に手を出してるようなスラム街だ。大富豪の家に生まれたイカルが、そんな連中と付き合えば、ろくなことにならないに決まってる。


「だから、そいつに見合う金持ちの養子縁組先を探してくるって言ってんだろ」


 ところが、ジュリエットは、


「だめよ! 世間ではイカルは死んだことになってるんでしょ。例え、良い養子縁組が出来たとしても、9歳の子どもが、自分の生い立ちを偽って生きてゆけるわけがないわよ。イカルは私の親戚の子として、ここで暮らすの。大丈夫よ。公立病院のあるエリアは危険区域からは離れてるし、入院患者は比較的まともだし」


「比較的? 笑っちまうよ。それに、安っぽい同情でそいつに関わるのは止めた方がいいぞ 」


 その言葉が自分自身に向けられているように思えて、アダムは居心地が悪くなってしまった。


「俺はもう行く。遅刻するとまた、上司に皮肉られるから」


 その時だった。背後に回り込んできたイカルが、ぐいとアダムの手を引いたのだ。


「アダムに質問です。明日は何月何日でしょう?」

「……」

「7月7日。忘れてないよね。明日はジュリアの誕生日だよ」


  ”7/7 ジュリエット・カナリア”


 ― 生まれてすぐに捨てられた赤ん坊に添えられていた小さな紙片。そこに書かれていた日付と名前 ―


 忘れるもんか。それが、幼いジュリエットが持っていた唯一の財産だったのだから。

 

「明日の夜は……忙しいんだ。多分、ここには


 そう言いながらも、アダムはズボンのポケットの中の小箱に手を伸ばした。中に入っている指輪は婚約指輪と呼ぶには安物だけど……ジュリエットの今年の誕生日に、ようやく、この指輪を渡す覚悟ができたっていうのに……。


 今のおかしな状態じゃ、そんなことはとても無理だ。


 すると、イカルが顔をしかめ、


「あのねぇ、アダムは、もう少しジュリアを大事にした方がいいんじゃないの。それでないと、他の男にあのを取られてしまうよ。この前だって、僕は知らない男の人とジュリアが、話し込んでるのを見ちゃったんだから」


「余計なお世話だ。ジュリアが誰と話してたって、そんなのはあいつの自由だ」


 だが、知らない男? 気にならないと言えば嘘になる。


 その時だった。


「二人とも、私に内緒で何の話をしているのかな?」


 ジュリエットが、二人の間に割り込んできたのだ。アダムは知らぬふりで戸口に向かった。


「とにかく、俺は行くから。呼び出しをくらってるんだ」

「誰から? いつもの意地悪な上司?」

「リア・バリモア」

「えっ?」


 ジュリエットが驚くのも無理はなかった。

 それは、1年前、ルナシティ警察で刑事として活動し始めたばかりのアダムが、ジュリエットと協力して逮捕した刑事の女の名前だったのだから。


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