第三章 Dangerous Zone(危険地域)

第1話 危険地域


 6歳の誕生日の朝に光を見た。

 

 外から固く目張りされた窓と玄関扉。それが開いた瞬間に、暗闇の中に差し込んできた、待ちこがれていた眩い光。

 だが、光の向こうの優しい聖母の微笑は、俺の顔を見たとたんに氷と化した。


 ― さっさと死んで ―


 母の指が俺の首に爪を立ててきた時、運命の歯車の螺子ねじが次々に外れ、別の歯車がきしみながら回り始める音を聞いた。


 スラム街の ― 児童養護施設チルドレンホーム― に保護され、その後、首都ルナシティ警察への入所が叶った今でも、襟元についた扼頚やっけいの痕に触れるたびに囚われる暗い想い。


 光など求めず、あの暗闇の中で眠ってしまえば……母の凍りついた顔を見ることもなく、俺は……死ぬことができたのにと。


 ― 駄目よ、アダム! 光から目を背けては。”俺たちは、何も諦めていない。”そう言ったのは、あなたでしょう! ―


― ジュリエット・カナリア ―


 そうだな。スラムの同じ場所で暮らしたお前となら、いつか、俺たちはまがいない光にたどり着けるのかもしれない。


 暴力と貧困と絶望 。隠謀と虚栄と金満病。

 正反対の悪意が、表と裏に憑依した首都ルナシティ。この危険な場所をすり抜けることが出来るのだとしたら。



*  *  


 首都ルナシティ。

 先端技術を結集させた、その街には、近未来都市と呼ぶに相応しい摩天楼が立ち並んでいる。

 都市機能は首都に集約され、陽光に向かって聳え立つ超高層ビル群の景観は、エリート予備軍の優秀な学生たちの野心を嫌が応なしに駆り立てた。巧妙な都市計画に基づいて設計された街並みは、緑豊かで、癒しの空間としても機能している。


 ところが、ルナシティから幹線道路をCity Cabで南に下り、デイブレイク駅を過ぎた瞬間に、腐った魚の匂いが鼻をつき、空気は突然、汚く淀む。

 退廃地区、スラム街への入り口を通り過ぎてしまったからだ。


 その危険区域と安全地帯を分けるぎりぎりの境目、デイブレイク駅の東側に、ジュリエット・カナリアの住むアパートがあった。


* *


「こらっ、イカルっ、パンは耳を残さずに、全部、食べなさいっ」

「やぁだ。そんな固くてパサパサなの、食べれたもんじゃないよ」

「もうっ、アダム、何とか言ってやってよ」


 久々にアパートの様子を見にくれば、 朝っぱらから、この騒ぎか。


 アダム・M・フィールズは、不機嫌な視線を、ジュリエットと居候の子どもに向けると、もはや、精神安定剤のようになってしまったIQOSアイコスを口にくわえた。

 漆黒の髪。同色の切れ長の瞳。浅黒の肌と、顔立ちからすれば、東方からの移民なのかもしれない。母が亡くなり、父の所在を知ることが出来ぬ今は、それも推測に過ぎないのだが。


「ジュリア、こんなガキの朝食に時間かけてねぇで、お前、さっさと仕事に行ったら」


 アダムの口元から加熱式タバコを引っこ抜くと、ジュリエットはマカライトグリーンの大きな瞳を瞬かせて、頬を膨らませた。


「今日は遅番! それより、アダムだって、朝食がわりにふかすのは止めなさい。体に悪いって、散々言ってんのに」

 

 アダムは18歳。ジュリエットは16歳。ともに幼い時にスラム街のフィールズ児童養護施設チルドレンホームに保護され、そこで育った幼馴染みだ。ちなみに、姓を持たなかったアダムは、そのホームの名を自分の姓にした。


 ホームに入ったとしても、スラムでは大抵の子どもたちは退所後は職に就けず、犯罪や薬に手を染めて闇の中へ堕ちてゆく。

 しかし、アダムは並外れた知能の高さを支援者パトロンに評価されて、希望していたルナシティ警察への就職が叶った。ジュリエットもスラムの公立病院で看護士として働けるようになった。


 胸元から2本目の加熱式タバコを取り出した青年の手から、それを強引に奪い取って、イカルが言った。


「ジュリアがダメって言ったの、聞こえなかった? それに、僕は、そのポップコーンみたいな匂いは嫌いだし」

「うるせぇな。慣れろって言ってんだろ。それに、俺に指図するなら、お前もパンの耳くらい、ちゃんと食え」

「だってぇ、不味いんだもん」

「だから、金持ちのお坊ちゃんってやつは……」


 いや、イカルは女児……だったか。


 アダムは悪魔的な笑みを向けてくる子どもの顔をまじまじと見る。


 ジュリエットがいじくりまわすから、ますます、ムカつく容姿に拍車がかかってきやがった。


 ― イカル・エバンス、9歳 ―


 吸い込まれそうに深い青の瞳に、陶磁器を思わせる色白の肌。ここに来てから伸ばせるようになった銀の髪が、絹のような艶やかさで肩でウエーブを描いている。


 イカルは、とある殺人事件で、アダムの保護対象だった子供だ。


 3ヶ月ほど前、大富豪のエバンス氏が後妻に殺害される事件が起こった。後妻は、その直後に事故死。前妻の忘れ形見だったイカルは自宅のバルコニーから投身自殺。 事件は、後味の悪い結末で終わり、エバンス家の全財産は、相続人不存在のため政府に帰属されることになった。

 そのニュースは、ゴシップ要素も交えて、ルナシティ中に大々的に伝えられたのだが……。


 アダムは、姉妹のように朝の食卓でじゃれ合う、ジュリエットとイカルを白々と眺めながら、3本目のIQOSを胸元から取り出した。


 イカルについ同情して、死亡工作までして、ジュリエットのアパートに連れてきたが……。


― たとえ、自殺であったとしても、俺は誰も殺さない。殺す側には、けっして、身を置かない。なぜなら、この首の痣に、鉛のように染み付いている。それを、俺は誰にもたくないから ―


 けれども、このスラム街の目と鼻の先に、いつまでもイカルを置いておくわけにはゆかない。

 ここは刺激が強すぎる場所。


 とりわけ、イカルのような不安定な心の子どもにとっては。



   

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