第8話 エピローグ

 数日前の熱帯夜は成りを潜めている。

 海の湿気と混ざり合った、スラム地域独特の魚の腐った匂いも、今夜はさほど気にならない。


 イカルはもう眠ったのだろうか。


 隣の寝室から時折こぼれてきた賑やかなTVの音は、いつの間にか途絶えていた。

 

「ねぇ、アダム、あの話って今も有効アリ?」

「あの話?」

「もう忘れちゃったの。アダムから私への!」



 微笑む少女。一瞬、アダムは眉をひそめた。

 ……が、ジュリエットにそれ相当のことを言ったような気もする。


「えっと、俺、降格してサラリー半減だし、今は無理。イカルのこともあるし、金だって余分にかかる。今、俺たちも目立った動きはしない方がいいだろ」

「何ぁんだ、でも、私って気が変わりやすいんだ。そこんとこ、よく覚えていてね」


 軽く肩をすくめただけで、アダムはそれ以上は何も答えなかった。


「代わりに、デイブレイク駅の東側に、ジュリアとイカルが住めるアパートを探すよ。同じスラムでも、東と西じゃ治安がぜんぜん違う。特にあいつがだっていうなら、尚更だ」


 ジュリエットは言葉を詰まらせた。身震いするほどの嫌な記憶が蘇り、この場からすぐにでも逃げ出したくなってしまったからだ。


「……女の子じゃなくたって、子どもは危ないわよ」


 スラム街は弱者であるほど、容赦がないの。

 それでも、私はこの街を諦めきれない。


 俯き、自分の手首に重ね続けた傷痕を見つめて続けている。その上へアダムはそっと自分の手を伸ばした。ぐいとその手を引いて、ジュリエットを自分の元へ抱き寄せる。


「悪い。嫌なことばかり言って。俺たちはこの街に生きて出会ったんだ。この街を変えてゆこうって、ジュリアは言ってたな。俺はそのことを忘れてないよ」



 そして、守るよ。は。



 耳元で囁いたアダムの声に、ジュリエットは安堵のような微笑みを浮かべた。

 けれども、


「イカルは?」

「あいつのことは、まだ、俺にはよく分からない。だから……」


 その時、アダムの上着からセルフォンの着信音が鳴り響いたのだ。


 深夜の電話ナイトコールは、いつだって、胸糞が悪くて理不尽な事件に繋がってるんだ。その呼び出し音から、俺は当分逃れそうにない。


「また、事件らしい。行ってくるわ。しばらくは帰れないかも知れないけれど、気をつけて。イカルのことは、よろしく頼む」

「分かってる。ねえ、イカルが髪を伸ばしたいって言ってるけど、いいよね。きっと、今よりもっと可愛くなるわ。女の子なんだもん。オシャレの一つもさせてあげないとね」


 何も答えず、アダムは軽く手を振ると、玄関から出て行った。


 ”返事がないのは、了解ってことだよね”


 街に、犬の遠吠えのようなサイレン音が響いている。

 ジュリエットは、アダムの後姿が路地の裏に消えてゆくのを見送ると、息を吐き、アパートの扉に三重に付けた鍵を、上から順番にかけていった。


* * *


 風の方向が変わったのか、海辺から、鼻をつく腐った魚と、きな臭い焦げた匂い流れてくる。


 強奪に伴う放火と、殺人、略奪。その裏に蔓延る貧困、虐待……か。


 アダムは、スラム街と同じ海を共有していた豪奢なエバンス邸を思い出していた。 


 あの館は”天国”で、スラムは”地獄”

 

 けれども、中身はそう変わらなかったな。


 くわえたIQOSアイコスからふっと息を吐き出すと、アダムは空を見上げた。煙ごしの空に、小さな星が瞬いている。

 今まで気にもならなかったIQOSアイコスのポップコーン臭が、やけに鼻につく。


『ぼく、その匂いは嫌いなんだ』


 イカルの台詞。アダムは一寸、吸い口から口を離した。

 ……が、


「うるさいな。慣れろよ」


 低くそう呟く。それから、アダムは、ストリートチルドレンがたむろする路地を駅に向かって足早に歩いて行った。


 新月の暗い空。

 星だけが、一際、明るく輝く夜だった。



*  *


 イカル


 あなたに、私の罪を伝えたくて、この電話をかけています。


 さようなら、イカル。


 出来ることなら、私は、あなたを愛してあげたかった。

 


    ― Night Call ―




      【第二章 Night Call 】   ~完~

  




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