第7話 スラムのカナリア
― 午後7時のニュースです。
8月23日の深夜に起きたエバンス邸殺人事件の続報をお伝えします。
ルナシティ警察は崖から転落事故死した後妻を犯人と断定し、容疑者死亡のまま書類送検しました。残された9歳の息子の投身自殺という痛ましい結末を迎えたエバンス邸は、相続人不存在のため政府に帰属されることになりました。
続いて、天気予報です ―
ネックスピーカーをオフにすると、サイバーコネクトから送信されるニュース音源がプツリと切れた。
「本日付けで、刑事課から
それが、
事件の翌日の明け方に、束の間だけ訪れたスラム街のアパート。アダムは再びその場所へ向かっていた。
あの時は、ジュリエットと短い話をしただけで、すぐにエバンス邸に戻ってしまった。事後処理に忙しくて三日も経ってしまったが、今頃、あいつはどうしているだろう。
ひび割れたエントランスの石階段を上って、アパートの玄関の前に立つ。いつものように合鍵を使って扉を開けた。すると……
「こらぁっ! 髪はちゃんと拭きなさいっ。夜は冷えるんだから、風邪をひくでしょっ!」
甲高いジュリエットの声が響いてきたのだ。
あっけにとられて扉の前に立っていると、目の前をタボタボのTシャツを纏ってバスタオルを頭にかぶった子どもが走り去っていった。
「何だ、この騒ぎは……」
アパートの中は酷い散らかりようだ。
苛ついた瞳の刑事。彼の姿を見つけた瞬間、一度、前を通り過ぎた子どもが大急ぎで戻って来た。
「アダムっ、聞いて。ジュリアの胸ってね、ふわっふわで、ぷるっぷるなんだぁっ」
アダムはぴくりと眉根をつり上げた。上司からの嫌味三昧に耐え抜いて、もてる限りの悪知恵を働かせて、”投身自殺”を装ってきてやったというのに……これかよ。
「イカル、お前は世間では死人なんだからなっ、ちっとは自重しろ! 」
するとその声を聞きつけたジュリエットが、バスルームから飛び出してきた。
「アダム、良かった! やっと戻ってきたっ」
イカルとお揃いのダボついたTシャツを着た少女。
「……イカル、あっちの部屋に行ってろ」
アダムはジュリエットを脇に抱えたまま、デイブレイク駅で買った焼き菓子を投げ、人払いをする仕草で手を振った。”安物だが美味しい”とイカルが評した菓子だった。
「分かった! ジュリア、冷蔵庫のジュース、持ってってもいい?」
「いいけど、寝る前にはきちんと歯を磨かないと虫歯になるわよ」
「うんっ」
狭いジュリエットのアパートには、今、アダムたちがいる
焼き菓子とジュースを抱えて隣の寝室に入ってゆく後姿を見送ってから、アダムは、二つの部屋の間の扉をぴたりと閉めた。椅子に座るとむっつりと黙り込み、
すると、がらりと硬く表情を変えて少女が言った。
「ねぇ、アダム、この先、あの子をどうするつもり?」
「……はっきりとは、まだ。けど、これから適当な引き取り手がいないか探してみる。あいつは育ちがいいから、すぐに金持の里親が……」
「駄目よっ。ニュースで観たわ。どんな事情で親の殺人事件に巻き込まれたかは知らないけれど、あの子は自殺したことになってるんでしょ。あんな小さな子どもが、それを周りに隠し通して生きてゆけるわけがないじゃないの!」
ジュリエットに事件の真相を教えることは
それでも、
― 俺は誰も殺さない ―
「ジュリア、少しの間だけ……」
「分かってる。あの子の面倒は私が看るわ。 親戚の子だって言ってりゃ何とかなるし」
「悪いな……」
とはいえ、この最悪の環境のスラム街で、貧困を知らないイカルが無事に暮らせるとは思えない。
その上、
「ジュリア、いくら子どもとはいえ、イカルはもう9歳だ。一緒にあいつと風呂に入るっていうのは、
何が、”ジュリアの胸は、ふわっふわで、ぷるっぷるだ”……部屋に入りしなのイカルの言葉を思い出し、苦い声を出したアダムに、ジュリエットはきょとんと目を瞬かせる。
「何でー?
「え?」
「イカルって、すっごく可愛い女の子だよね。あの銀の髪を伸ばしたら、アイドルタレントになれそうなくらい」
女の子? イカルが?
一瞬、アダムは戸惑いを覚えたが、それはすぐに確信に変わった。
これがイカルの歪みの原因か……エバンス家……いや、
実母は夫が褒めたイカルの銀の髪を切り続け、二番目の妻は、イカルが可愛がっていたカナリアを殺した。それは、娘を溺愛していた夫への当てつけと、娘への復讐……。
イカルが女の子だとしたら、同性に対する二人の母の妬みはより複雑で、執拗で、陰湿だったのかもしれない。
時折、イカルが見せた”違う顔”。それが、虐待され続けた子どもが自分自身の中に作り出した逃避先だったとしたら、そちらのイカルが父親を絞殺したことは、ほぼ間違いない。だが、
根深い闇は、どこへ消えたんだ。
もう一人のイカルの殺意は?
「ジュリア、イカルは一緒に暮らすには、相当、難儀な相手かもしれない。だから、今からでも……」
ジュリエットは、上目遣いのアダムに怪訝な顔をした。彼がそんな目をするのは決まって、物事がこじれてきた時だ。
「ううん。面倒は私がみる。イカルが変わった子どもなのは、よく分かってるわ。でもね、私はあの子がすごく可愛い。だって、私の名前が好きだって、イカルはやたらに名前を呼びたがるのよ。”ジュリエット・カナリア”それが、ジュリアの名前なんだねって」
ここにも、”カナリア”がいたんだねって。
「カナリア……か」
イカルのカナリアは死んでしまったのに。
沈黙したアダムの横顔。憂いたような表情を見て、ジュリエットは一つ息を吐き、
「アダム、私が前に話したことを覚えてる?」
「前に話したこと? ジュリアが俺に?」
「うん。もし、私とアダムが結婚して子どもができたらって話」
”大きくなったら、子どもはきっと聞いてくるわ。
パパの体はどうして、そんなに
ママの手首には、どうして、たくさん傷痕があるの?”
そのことを思うと不安で不安でたまらなくて、自分の生立ちを恨んだ夜もあった。
でもね、
あの子は、お風呂で私の傷を見ても、そんなの、どうでもいいみたいに、たわいのない色々なことを話しかけてくるの。それに応えるのが、私は楽しくて……
互いの傷をなめ合って、慰め合って、生きてゆきたいわけじゃない。
ジュリエットは、アダムの顔を覗き込む。
― 大丈夫。私たちはどんなことだって、乗り切ってゆける。だから、ずっと
「なぁんだ。どうでもいいじゃない」
って、思えてきちゃったの。
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