第6話 夜明け

「お前は、今日の午前0時に父の死を見届けたと言ったが、それで満足することができたのか」


イカルはアダムの問いには答えず、ぼんやりと宙を眺めている。

 義母からかかった深夜の電話ナイトコールが、頭の中で、繰り返し流れては消えていった。


『 あの人の最後を看取ったのは”私”  ”私”  ”私” ……』


そんなことなんて、どうだっていいじゃないか。

死んでしまったぼくのカナリアは、どうしたって、戻って来ない。


「イカル! 聞いてるのか」


アダムに名前を呼ばれた時、


 ”逃げろ”


 いつも通りの心の声が響いてきて、イカルはその声に従った。

 途端に、胸に詰まっていた”異物”がすうっと体の中に消えていった。


「首を絞めるなんて酷いお母さんだねえ。そんな悪いお母さんは、いっそ、アダムが小さい時に殺してしまえば良かったんだ。どうってことないじゃないか。スラム街では、人殺しなんて当たり前なんでしょ」」

「イカル、話をそらすな! それに、俺は人を殺したりしない」

「へえ、意外。でも、ルナシティ警察の刑事さんなら危ない目にも遭うでしょ。すごく悪い犯人が襲ってきて、危機一髪って時にも、アダムは人を殺さないって言えるの」


「殺さない」


「すっごーい。アダムは刑事の鑑みたいな人だねぇ。でもさ、もしそれが、アダムの一番、に、犯人がナイフを突き立ててきた瞬間だとしても?」


 一瞬、ジュリエットの微笑みが脳裏に浮かんだ。だが、アダムはその映像を振り切るように頭を横に振った。


「ほんっとう、アダムって甘々だ。それこそ、自己満足ってやつだよ」

「そうであっても、俺は殺さない。それが、どんな理由でも。どんな場合でも!」


 惨めな、突然の、哀しい、驚き、苦しい、懇願、絶望。

 あの耐え難い究極の責め苦


自分の首の絞め痕に手を触れると、アダムは剃刀めいた鋭い視線でイカルを睨めつけた。


「俺には、殺される側の気持ちが分かるから」


 その一瞬、イカルの瞳の中に微かに戸惑いが見えたのをアダムは見逃さなかった。蝋人形のようだった白い頬にも少し赤みが差している。


 俺は、自分の心の奥を全部、さらけ出しちまった。だから、今度は、イカル、お前がそうしろよ。


 東の空の濃い群青が、水平線の部分だけ仄かに水色に変わりだしている。


 まだだ。夜は、まだ明けるな。


 祈るような気持ちで、アダムはイカルに質問した。



「交換条件だ。俺が自分の話を終えた後に、お前は俺の質問に答える約束だったな」

「質問なら、もう聞いたよ。『ぼくがパパの死を見届けて”満足”したか』ってことでしょ。そんなことなら……」

「いや、その質問は取り下げだ。どうせ、上手くはぐらかされるに決まってる」

「……」


 突然、身を後ろに引いた子供。逃がすものかと、若手刑事はその腕を強い力で掴んだ。


「俺は質問する。俺には殺される側の気持ちが分かると、さっき言ったのを、お前は聞いていたな。なら、イカル……」



がお前には分かるのか」



*  *


 水平線の上に朝の光が半円を描き出している。波から溢れたオレンジ色の光が岸に流され、海面にまだ満ちぬ太陽の像を映し出す。

 だが、西の空には、まだ月と星が夜の名残を惜しむように薄く輝いていた。


 イカルと共に館のバルコニーに出たアダムは、夜明けの景色を苦い想いで眺めていた。

 IQOSアイコスをふかしながら黙したままの刑事。脇にいる子供は遠慮がちに彼の顔を覗き込んだ。


 このポップコーンみたいな匂いは嫌いだって言ってるのに。

 でも、もう、それもどうでもいいや。


 アダムには気づかれていたんだね。


 そう。義母ママンが花瓶で父の頭を殴った時には、父はもう死んでいたんだよ。

 花瓶で殴られて死にかかっていたパパの留めをさしたのが、ぼくって言ったのは嘘だ。

 

 昨日の夜もぼくは父の部屋に呼ばれた。それがとても嫌で、眠り込んだのを見計らって、ぼくは父の首をガウンの紐で絞めたんだ。

 呼吸が止まったのは午前0時。ちゃんと、ぼくは時計を見ていて、のだから、その時間に間違いはないよ。


 パパを殺したかったのは、義母ママンじゃなくて、このだったんだ。


 このバルコニーで少し冷たい風にあたってから、自分の部屋に戻ると、可愛がっていたカナリアが籠の中で死んでいた。

 あれは、父をぼくに殺された義母からの仕返しだったのかな。それなのに、あのひとは息のない父の頭をわざわざ花瓶で殴りつけて、ぼくの罪を引き受けてくれた。



― イカル


 あなたに、私の罪を伝えたくて、この電話をかけています。


 でも、後悔はしていない。


 あの人の最後を看取ったのは、”私”


 それをあなたに、伝えたかった ―



 イカルの義母が車で崖へ飛び込む前にかけてきた深夜の電話ナイトコール。それは、息子の罪を自分がすべて被るという覚悟を伝えるための電話だったのだろうか。それとも、夫の最後は自分が看取ったと誇示するためだったのか。


 今となっては、真実は何も分からない。

 胸糞が悪くなる展開。だから、俺はこんな子供には関わりたくなかったんだ。

 

 沈黙したままアダムは海を見つめている。すると、気まずい空気に耐えかねたのか、イカルが問いかけてきた。


「ねぇ、アダムのお母さんは綺麗な人だったの」

「……ああ」

「アダムはお母さんが好きだったんだね。だから、最後を看取って満足できたんだ」

「好き……? よく分からないな」

「好きだったんだよ。ぼくは少しも好きじゃなかった。だから、殺せたんだよ。あの人も」

「あの人もって?」


「ぼくの本当のママン


 胡散臭げに自分の顔を見返してきた刑事。イカルはそれに微笑みを返した。


「お前の本当の母親は自殺だったんだ。このバルコニーから海へ飛び降りたのは、イカル、お前が原因だったのかもしれない。けれども、お前が殺したってわけじゃない」


 けれども、イカルは首を横に振って言った。


「ううん、違うよ。ママンもぼくが殺したんだ。ぼくは髪を伸ばしたかった。それなのに、母は、パパがぼくの銀の髪を褒める度に、いつもこの髪を短く切った。父がぼくと一緒に過ごした朝には、決まって酷い目に遭わされた。父がいなくなると、帰ってくるまで、このバルコニーに閉じ込められたり、水をかけられたり、そんな母がぼくは憎かった。だから、ぼくは母を殺した」



 ぼくの心の声に従って。



「ねえ、アダム、このバルコニーの床にある”脱出口”を見て」


 バルコニーの床にある真四角な脱出口を指さしたイカル。アダムはその瞬間、はっと大きく瞳を見開いた。


「イカル、お前、まさか……」


 目前にいる子供は、淀みのない青の瞳を彼に向け、真実を告白する。


「そう、ママンはバルコニーから飛び降りてなんかいない。母は、海へ落ちたんだ。ぼくがこっそり開けて、見えぬように隠してから母を誘導した脱出口。その穴から下へ落ちて」


 だからと、イカルは言った。


ママンを殺したのは、やっぱり、”ぼく”だよね」


*  *


「アダム、何を考えているの?」

「うるさい。話しかけてくるな」

 何だよ……ぼくの秘密をせっかく教えてやったのに。


 拗ねた顔を向けても、傍にいる刑事は黙々とIQOSアイコスをふかし続けている。

 イカルは、バルコニーに居続けることが苦痛になり、いつものように”心の声”に耳を傾けてみた。けれども、どんなに耳を澄ませても声は聞こえてこない。


 どこかへ行っちゃった……の?


 空洞になった心を通り抜ける風の音だけが耳に届く。



 あの声だけを頼りにして、あの声だけを信じて、ぼくの味方だったのに。


 そのとたん、イカルの胸に救いようのない孤独と絶望が広がってしまったのだ。


「ねえ、アダム、ぼくを逮捕するの」


 それでも、無視を決め込み何かを考え続けている刑事。彼の端正で無表情な横顔が、孤独な子どもの不安をさらに煽り立てた。


 そんなの、ぼく、怖いよ!


 すると、イカルが突然、アダムの脇をすり抜けてバルコニーの隅にあったプランターラックから、バルコニーの桟によじ登り始めたのだ。


「おい、止めろ!」


「嫌だ! パパを殺しママンを殺し、死んだのを見届けても、満足どころか心の中は空っぽになっちゃった。もう、ぼくには何も残ってない。こんな気持ちは知りたくなかった。こんなじゃ、生きていても仕方ないよ。アダムはいいよね。お母さんの死を看取って救われたんだから。でも、ぼくには救いなんて何もない!」


 水平線から届いた陽光が小さな子どもの背を照らしていた。けれども、逆光で紗がかかり、暗く翳った彼の表情はよく分からない。

 アダムは動くに動けず、バルコニーの桟に手をかけたままの姿で立ち尽くした。

 下手に手を出すわけにはゆかない。その瞬間、イカルは下の海に飛び降りてしまうだろうから。

 ”止めろ!と叫んだ拍子に、自分の口から落ちたIQOSアイコスのポップコーン臭がやけに鼻につく。

 アダムの視線が自分に向いたことを知り、イカルはほっとしたような笑みを浮かべた。

 

「大丈夫だよ。アダムは人を殺さないって言ってたけど、僕がここから飛び降りて死んでも、それは人を殺したってことにはならないもの。これは、僕がだから」


 だからね、これは、ぼくの最初で最後のお願い。


 空っぽの心の中に、たった一つ、残されていた真の気持ち。イカルは、バルコニーの桟に足をかけると、動けぬままの刑事に言った。


「アダム、ここで、ぼくが海へ落ちてゆくのを見ていてよ。アダムにもらえたら、ぼくはすごく満足だ」


「駄目だ。止めろ! もう少し、俺に考える時間をくれ!」


 声を荒らげたアダムに澄んだ青の瞳を向けると、イカルはいたずらっ子のように笑い、あっかんべえと赤い舌を出した。



「いやだよ。そしたら、アダムは、またタバコを吸うんでしょ。ぼくは、そのポップコーンみたいな匂いは大嫌いなんだ」



 *  *


 夜が明けた。

 海から朝日が昇ってくる。甲高い鳥の声が響き、海の波は眼下の岩を撫でるように優しく、満ちては引くを繰り返していた。

 太陽の光が眩しすぎて正視することができない。目を閉じ深く息を吸い込んでから、アダムはセルフォンを取り出すと、一本の電話をかけた。


「もしもし、ジュリエット? こんな早い時間にご免。え? 午前4時半……うん、分かってるけど、どうしても声が聴きたくて」


 セルフォンに向かって、アダムは乞うような声を出した。


「今からそっちへ行っていいか。また、すぐにこっちへ戻らなきゃならないが、今、ジュリアに会わないと、俺……頭がおかしくなってしまいそうで」


 セルフォンを切りバルコニーに背を向ける。足元に落ちたカナリアの羽を見つけると、アダムは逃げるようにそれから目を反らした。

 精神安定剤がわりのIQOSアイコスを探して上着のポケットを探っても、すべて吸い尽くしてしまって、出てくるのは、ジュリエットが忍び込ませて潰れてしまっている貧民街スラムのお菓子が一つだけだった。


 イカルが美味しいと言った焼き菓子……


「でも、こんなものは、もう、いらないか」


 アダムはそれをゴミ箱に捨てた。

 苦い想いばかりが、胸に浮かんでは消える。


 上司に何て報告すればいいんだ。

 俺、とんでもないことをしてしまった。始末書どころか、下手をすれば、このまま、ルナシティ警察を解雇されてしまうかも。


 朝の光が彼の暗い心とは裏腹に、海辺に建つ豪邸を眩しく照らしだしていた。


 こんな日にも、朝は来るんだな。


 その温もりに引き付けられるように、アダムは館を後にする。


 ジュリエットに会いたい。

 今はただ……それだけで、いいから。


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