第5話 12月26日 午前0:00分
壁時計のデジタル文字は午前3時。
凪の時間なのか、夜を身に掛けた海はまだ深く眠り込んでいる。
保護対象の子供をこれ以上刺激して、後々、面倒事になるのも厄介だ。
深入りせずにさっさと寝かしてしまえと、アダムの感情が脳裏に囁きかけてきた。けれども、
捜査員たちやエバンス家を取り仕切る弁護士に、託してしまったが最後、深い闇は一生つきまとって、この子供を蝕み続けるぞと。
その時、イカルの方が、アダムに声をかけてきた。
「ぼく、質問があるんだ」
「質問? 俺にか。質問は”交換条件”って言ってたのは誰だったか」
「あ、そうだね。じゃ、アダムは後でぼくに質問してもいいから」
どうせ、さっき興味津々で見ていた俺の首の痕のことを、聞いてくるんだろう。聞きたきゃ、教えてやるが、あんなことを知っても気が滅入るだけなのにな。
けれども、イカルの質問はそれより、もっと答えに窮するものだったのだ。
「ぼくには分からないんだ。あの
「……」
答えあぐねているアダムを見て、イカルは小悪魔めいた顔をして笑う。彼の傍に身を寄せると、イカルはその耳元でそっと囁いた。
「うふ、他の大人と違っててアダムは、はぐらかしたりしないんだね。だから、アダムにだけ、ぼくの秘密を教えてあげる。あの女は馬鹿だ。だってね、
「……どういうことだ」
「今、言った通りだよ。あの女から
「エバンス氏は、その時、まだ生きていたってことか! イカル、その時、なぜ、助けを呼ばなかったんだ。館には使用人だっていたっていうのに!」
「だって、ぼくは父の手を取りたくなんてなかった。そしたら、父はすごく悲しそうな顔をしたんだ。だから、ぼくが楽にしてあげたの。そして、父が動かなくなるまで、ぼくは、時計を見ながらずっと傍にいた。それが、あの女が言ってた
不意に、アダムは、イカルが自分の喉元の絞め痕を見た時の台詞を思い出した。
―
「イカル……ナイトガウンの紐でエバンス氏の首を絞めて留めをさしたのは……お前だったのか」
「違うよ! ぼくは父の留めをさしたんじゃなくて、”最後を看取った”んだよ」
外から波の音が響いてくる。耳障りで仕方がない騒めきの音色が。
凪いだ時間は終わり、海から吹く風がバルコニーの桟の飾りを揺らしていた。
夜はまだ明けない。この夜は長すぎる。
「時計を見ていたと言ったな。エバンス氏が死んだのは何時だ」
「午前0時ぴったりに」
午前0時……それはアダムにとっても忘れられない時間だったのだ。
―
皮肉な話があるもんだ。これは、俺にこの歪められた子供をどうにかしろって言うことなのか。
荷が重すぎる。ルナシティ警察には、エリートをひけらかしてる先輩刑事が沢山いる。こんなややこしい事件こそ、そいつらが担当すべきだろ。
けれども……
「イカル、”人の最後を看取る”って意味をお前は勘違いしてる。偶然だが、2年前に、俺が母親の最後を……俺の首を6歳の時に絞めて、この首の痕をつけた母親の死を看取った時間も午前0時だった。その時の話をしてやるよ。お前がどう思おうと勝手だが、聞き終わった後に俺はお前に一つだけ質問する。交換条件だ。けれども、答えは慎重に選べ。下手をすれば、お前はすべてを失うことになるぞ」
* *
「人の死を……それも、6歳でスラムの児童養護施設に放り込まれたきり、会うこともなかった母の死を看取るなんて、俺には戸惑いでしかなかったよ」
バルコニー越しの深夜の海。
朝がくれば、波に押しあげられて、隠した想いが水面に
せめて、夜が明ける前に、この話を終えてしまおう。
アダムは、
* *
俺の故郷は、ルナシティでも最下層といわれるスラム街だ。俺はその街の児童保護施設で6歳から16歳までを過ごした。
父の顔は知らない。母は毎晩、夜になると出かけて朝まで帰ってこなかった。
母の名はマリア。俺とは違って明るい金髪と緑の瞳が美しい人だった。俺の黒髪と浅黒い肌は父親にそっくりなんだと。それを嫌って母は、俺を殴ったり、泣いたり、拗ねたり、そんなの俺のせいじゃないのにな。
けれども、ある夜から母が帰ってこなくなった。家に外から鍵が掛けられ、ドアや窓にはガムテープ。外にも出れず食べ物もなく、俺は水道水だけでずっと母を待っていた。
母が帰って来たのは二週間後。俺の6歳の誕生日の日だった。
母は俺に死んで欲しかったんだと思うよ。けれども、俺は生きていた。
家の扉を開けて俺の姿を見た時、母は、本当にマリアさまみたいに優しく笑ったんだ。でもさ、すぐさま、悪魔じみた表情になって、俺の首をきつく絞めた。
「さっさと死んで」
それが俺が最後に聞いた
イカルはソファに座ったまま微動だにせず、アダムの話を聞いている。
「ふぅん、そんな
「あのな、お前、その言い方、どうにかしないとマジでぶっ飛ばされるって言ってんだろ」
「あれ、スラムじゃ
イカルは、あははと陽気に笑った。
アダムは眉をしかめたが、脱線しかけた話を元に戻した。
「ルナシティ警察の入所に関しては、
「ああ、ぼく、その支援者の気持ちが分かるよ。だって、アダムはすごく
微笑む青の瞳の奥は底が知れない。
注意深くイカルの表情を観察しながら、アダムは話を続けた。
* *
俺が、ルナシティ警察から入所の合格通知をもらったのが、12月25日のクリスマス。支援者が気を利かせて、その日に合格通知を送ってくれたんだと思うが、確かにそれは俺にとって、最高のクリスマスプレゼントだったよ。
だが、その夜更けに一本の電話が、俺にかかった。行方知れずだった母が危篤なのだと。
母の肺は麻薬でボロボロになっていて、かつぎこまれた病院に俺が着いた時には、もう瀕死の状態だった。
『多分、夜明けまではもちません。だから、せめて、最後の時が来るまで、手を握っていてあげて下さいね』
看護婦はそう言って、俺と母を残して病室を出て行った。けど、深夜の病室に母とたった二人きりにされて、俺は戸惑った。それはそうだろう? 昔、散々、自分を虐待して捨てた女を俺にどうしろっていうんだよ。
母は痩せて青白い顔をしていた。
枕元に死神が来ているのは一目瞭然なのに、金髪がさらりとかかった顔は昔と変わらず美しかった。
細くて長い指がシーツから出ていた。
触れると即座に払いのけられた母の指。俺が焦がれた指。
今なら……
俺は馬鹿な奴だよ。その指が自分の首を絞めたことなんて
握った手は冷たかったが、もしかしたら握り返してくれるんじゃないかと、おかしな妄想まで沸き上がってきてしまった。
俺は、わずかながらも楽しかった記憶を頭を振り絞って思い出して……作ってくれたパンケーキが美味かったとか、連れて行ってくれた海の夕焼けが綺麗だったとか……看護婦に見られたら恥ずかしすぎる話をし続けた。
「その声は聞こえたの。アダムの手を
アダムは黙って首を横に振った。
「そんなわけあるはずないじゃないか。母は俺の
アダムは話を続けた。
不規則な呼吸を繰り返し、母は死の道を歩いて行った。
それでも、それが俺が母といて、これまでで一番静謐な時間だったんだ。こんな時間が、もし幼い時にあったなら、母がもう少し待っていてくれたなら……大きくなった俺は、この人を少しは楽にしてあげれたのに。
悔恨ばかりが浮かび上がるっていうのに、俺はその時間が、
12月26日 午前0時00分。それが母の呼吸が止まった時間だ。
その後、死亡確認に来た医者が俺に告げた。
「12月26日 死亡時刻 午前0時15分 死亡確認しました。ご愁傷様です」
でもな、俺は心の中で思ってた。
違う、そうじゃない。
それは、俺しか知らない時間。母の最期は確かに俺が看取った。
アダムは低い声で言った。
「イカル、お前が父の死に際に目に刻み込んだ時刻と、俺が母を看取った時刻は、共に午前0時00分。けれど、お前は死を見届ける意味を知ることができたのか」
自己満足だったのかもしれない。
それでも、母がやっと自分の元に帰ったきたと思えた瞬間に、
俺は、救われたんだ。
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