第4話 懐かしい場所

 若い運転手は身の上話を終えた後、短く息をつき、俯いて黙りこくった。彼の胸中を推し量ることができない。ほんの少しの時間が何分にも思える時間だった。


「俺……ちょっと、外へ行ってくる。久々に故郷スラムの空気を吸いたくなった」


 リアたちに許可を求めるわけでもなく、彼は勝手にCity Cabの外に出ていった。彼らの間には、もはや、客と運転手という関係はなくなってしまっていた。


「刑事さんっ、今のうちに逃げようっ。あいつ、絶対に犯人だって。今、流行りの連続絞殺事件の」


 ジュリエットの言葉に、女刑事のリアはごくりと生唾を飲み込んだ。少女に強く握られた手首。けばけばしいネイルの爪が、肌に食い込んで痛い。それが、ひどく不快だった。


「駄目よ。あの運転手の後ろ姿を見て。タバコをふかして知らぬふりをしているつもりでも、背中越しには、こちらの動きを伺ってる。私にはそれが分かるわ。逃げたとたんに、何をしかけてくるか分かったもんじゃない」


「でもぅ……私、まだ、死にたくないしぃ……」


「……」


 びるような視線を投げかけてくる少女。こんな遊ぶだけしか能のない不良娘を守ってやる価値があるのかと、リアは眉をしかめたが、


「ここで、待ってて。私があの男を止める」


「えっ?」


「私が戻ってくるまでは、cubの扉をロックして、あなたは、絶対に外に出るんじゃないわよ」


 強い声音で言い残して、女刑事は車外に出て行った。先ほど、ジュリエットに握りしめられ、爪をたてられた手首がまだ痛い。


 生暖かい夜風と、生臭い魚の匂いが鼻をつく。


 ここは、犯罪が日常の地域スラム。どう抗ってみたって、その世界に飲み込まれた少女たちを、自分、一人の力では、とても救いきれない。胸が苦しい。それでもと、リアは自分自身を鼓舞した。


「いいえ、どうにかして、ここを逃れなければ。あの少女だけは、私が救う」



*  *


  What my finger touches

 (私の指が触れるのは)

 

  The secret home of her heart.

 (彼女の心の秘密の棲家)


 若い運転手は、自作の歌の短いフレーズを口ずさんだ。実際、IQOSアイコスをふかすより、この歌を歌っている方が、心は落ち着く。スラム街の空気は懐かしいけど、おぞましい。


 と……その時、背後に人の気配を感じて、彼は後ろを振り返った。すらりとしたショートボブの女刑事がそこに立っていた。

 

「やっぱり、あんたか。ちょっと、遅くなったけど、自己紹介がまだだったな。俺の名前、アダムっていうんだ。あんたは?」

「……リア」

ファミリーネーム名字は?」

「あなたに、そこまで、答える必要があるかしら?」


「俺、知ってるぜ。あんたの名前は、”リア・バリモア”。ルナシティ警察のエリート刑事だ。すげえな、その若さで、もう警部か?」


 その直後だった。リアが、アダムの向うずねを渾身の力で蹴り上げたのは。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る