第4話 白昼の対峙


 排気混じりとはいえ、地元の空気を吸うとそれだけで幾らか心が落ち着くものだ。

 主要駅から電車で三十分ほど西進した先にキャンパスを構えるうちの大学は、その微妙な立地のおかげか、不必要に広い敷地面積を誇る。中には大小様々な建物が雑然と立ち並び、初来訪で迷わずに構内を回ることはほとんど不可能といってよいだろう。俺のサークルが根城としている講堂裏の部室棟など、偶然迷い込まなければ到底たどり着けまいと思える入り組み様だが、それゆえに入ったばかりの頃は『自分たちだけの秘密基地』感を年甲斐もなく楽しんでいたものだ。


 部室の引き戸を開けると、誰がどこから持ち込んだとも知れない簀子のベンチに、一人の女性がぺたりと腰かけていた。


「やあ、早いね」


 俺が話しかけると、


「まあ、先輩に呼び出されましたからね」


 と、少々不機嫌そうな声色で返されてしまった。


「そりゃそうだが、まだ約束の十五分前じゃないか」

「三限のあと、特にすることもなかったのでずっとここにいたんです。あ、お昼のカップ麺の匂いがしてたらすみません」

「いや、大丈夫。こっちこそ、急に呼びつけちゃって悪いね、ことりちゃん」


 軽く頭を下げる。浅間ことりは気にも留めない様子で、弄っていたスマホをベンチに置いた。

 俺の一つ後輩であり海玖と同期であることりちゃんは、海玖とは対照的に物静かで柔和な人柄だ。ショートに切り揃えられたヘアは前髪だけが少し長く、落ち着いたデザインの丸眼鏡と相俟って垢抜けない印象を与えるが、その奥の瞳には容易に見透かせない堅固な意思が宿っているのを感じる。服装はいつも寒色系で、今日は浅葱色のTシャツに身を包んでいた。


「というか、いいんですか? 私と二人きりで会ったりして」

「……え?」

「海玖にバレたら、後から何を言われるか……」


 ことりちゃんは気まずそうに目を伏せた。表情から察するに、照れ隠しなどではなく本当にそのことが心配なのだろう。わずかに残念な気がしなくもない。俺は小ぶりなテーブルの周りに雑然と置かれたパイプ椅子から、適当なものをひとつ手繰り寄せてすとんと腰かけた。


「ああ、それなら大丈夫、海玖とは昨日会ってたし、今日ことりちゃんと二人で話すこともちゃんと伝えてあるよ」


 それでも学外で会うのは気が引けたので、こうして誰もいない時間帯の部室を場に選んだのだった。ここであれば妙な噂を立てられるようなこともないだろう。ことりちゃんは安堵の表情を浮かべた。


「そうですか。……許可済みなのも、それはそれで何となくやりづらいですが……」

 そこは我慢してもらうしかない。俺はあいまいに笑うだけだった。

「じゃ、さっそく本題に入ろうか」

「……」


 一転して、お互いの表情が硬くなるのを感じる。

 具体的なことは伝えなかったが、こうして俺に呼ばれた時点で、何の話をするのかは当然ながら彼女も察していたのだろう。


「学祭でことりちゃんが展示した、『悲願』というイラストだけど」


 さらに表情が歪む。

 記憶の中で、不気味な真顔をしたシスターが俺に向かって祈りを捧げていた。


「あれは、UnCarnationを使って描かれたもので、間違いないね」

「………どうしてそう思うんですか」


 換気が悪い部室棟の部屋は、今日のような暑さになると蒸して仕方がない。申し訳程度に設置された古い扇風機が室内に気流を作るが、とても快適とは言えない様相だった。額から顔を伝う汗はそのせいか、それとも緊張のせいか。

 ことりちゃんは更に言葉を続けた。


「先輩が海玖の肩を持つのは分かります。彼女の言葉を信じたいという気持ちも。……でも、これが気持ちの問題だけで済む話でないことくらい、先輩は分かってくれていると思ってました」

「……うん。分かってるよ」


 まっすぐ目を見ることができず、視線が宙を舞う。


「個人的に海玖の味方をしたいって気持ちも、当然ある。でもそれだけじゃない。事実をはっきりとさせたくて、今日俺はここに来てるんだ」

「事実、ですか」


 見くびるように、ことりちゃんは俺の言葉を繰り返した。


「そこまで言うからには、何かしらの根拠があるんですよね」

「一応、それらしいのはね」


 俺はズボンのポケットからスマホを取り出した。フォトギャラリーを立ち上げ、一枚の画像を画面に映し出す。当然ながら、『悲願』と題された教会のイラストだ。


「このイラスト、本当に良く描けてる。展示会で一位を取ったのも納得だ。特にこのシスターの、不気味とも神聖ともつかない妖しげな表情が―――」

「前置きは結構ですので、結論だけ教えてください」


 ことりちゃんがぴしゃりと言った。……この子、こんな感じだったのか。別に脇道に逸れていたつもりはないのだが。まあそう言うのであれば、答え合わせだけすることにしよう。

 はっきりと聞こえるように、俺は告げた。


「“TOUMEI111001”」

「―――――」


 彼女の瞳に動揺が走る。


「これ、UnCarnationで使えるプロトコルだよね。心当たりは、もちろんあると思うけど」


 UnCarnationをはじめとする画像生成AIは、文章を入れればそれに沿った画像を出してくれるという、俺からすれば魔法のようなシステムだ。そして、魔法を唱えるためには呪文が必要になる。AIで画像を出力するために入れる文章、つまり呪文のことを、その道では「プロトコル」と呼ぶらしい。


「これから言うことは全てグーグルの受け売りだ。検証不足と言われればそれまでだが、とりあえず話させてもらうよ」


 浅間ことりは何も言わない。

 “TOUMEI111001”がUnCarnation用のプロトコルであることは、検索ですぐに突き止められた。問題は、それがどんな効果をもつ呪文であるかだ。


「UnCarnationはリリース当初、風景画やパターンなどの生成に関しては非常に高性能である一方で、人間の姿、特に顔を美しく描くことが苦手だと言われていた。特に問題なのが瞳で、ハイライトがどうしても不自然に濁ってしまうそうだ。データセットの偏りだとか何とか、ちょっと詳しいことは理解できてないが、色々と原因が分析されていたらしいな。そんなある日、どこの誰が発見したのか、突然流行り出したのが“TOUMEI111001”だ」


 目の前の少女を断罪したいわけでは決してない。それでも、それなのに、俺は面と向かって彼女の嘘を暴かなければならない。それは予想以上に苦しいことで、そしてきっと、彼女の苦しみはそれ以上なのだろうと思った。


「これをプロトコルに追加すると、文字通り瞳の透明感が増す。それだけでなく、全体的な人間の完成度も安定するらしい。どうしてこの文字列がそんな効果を持っているのか、理由は今なお不明。だが、とにかくこれが発見されたことで、UnCarnationの実用性は大幅に増したそうだ。

 ところで、このプロトコルを使うと、瞳のハイライトにある共通の特徴が出るらしい。それが―――」


 

 十九歳の未来あるイラストレーター。彼女が『悲願』と名付けたその世界観に、俺は思いを馳せずにいられなかった。

 言葉を紡ぐ。全ては確認作業にすぎない。そう自分に言い聞かせながら。


「君が描いた絵の、シスターの瞳にあるものとそっくりだ」

「………」


 ことりちゃんは目を伏せた。

 急に、彼女がずっと遠くに座っているような錯覚に襲われる。位置関係は変わるはずもない。目が合わないのは最初からだったはずなのに。俺とことりちゃんを挟む空間に、見えないけれど越えられない分厚い壁が現れたような、そんな錯覚。

 着てきた柄シャツに汗が滲む。

 そして、声が聞こえた。


「たしかに私は、UnCarnationのことを知っていました。そのプロトコルのことも。……だから私は、んです」

「………………それは」

「そうではないと言い切れる証拠がありますか?」


 今まで聞いたことがないほどの強い口調だった。


「トレスやアイデアの模倣は問題ですが、これは単なる技法のリスペクトです。問題にもなりませんし、当然ながら、私はこの絵の全てを自分の手で描きました。……繰り返します。そうではないと言い切れる証拠が、どこかにありますか?」


 その声はどこか震えている。しかし、台詞に淀みは無かった。想定内の追及だったということだろう。

 彼女の中にある、偽りを貫き通すという決意。それを剥がさない限り、話は一歩も前に進まない。

 これが、浅間ことりから俺への、最後の挑戦だ。


 ―――努めて優しい声を作りながら、俺は言った。


「確かに、それを否定する証拠を、俺は持ってない」

「では――――」

「でも、いいんだ。もう君は、嘘をつき続ける必要はないんだよ」

「…………え?」


 この瞬間を何度も脳内でシミュレートした。何度やっても、上手く喋れる気がしなかった。己の巡り合わせが憎い。けれど、今更逃げるわけにもいかない。

 虚を突かれたような表情のことりちゃんに追い打ちをかけるがごとく、俺はこう告げた。


「海玖が、既存のイラストをトレスしていたことを認めたからだ」

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