第5話 あてのない航海
轟音が響き渡り、立っていられないほどの振動が牢獄を突き抜けた。私は無様に転倒して硬いコンクリートに身体を打ちつけ、呻き声を上げる。
振動はさらに大きくなり、牢獄全体が激しく鳴動している。私はベッドの下に潜り込み、震えながら身を竦めた。
どのくらい経っただろうか、振動は収まり、牢獄は静寂を取り戻した。私は恐る恐るベッドの下から這い出し、窓辺に近づいてみる。壁のあちこちには大きな亀裂が入っていた。
「あっ、これは」
海がすぐ近くにあった。窓から身を乗り出して見上げると、白い支柱が空に向かって伸びている。
巨大魚が暴れた衝撃で円筒形の牢獄が海面スレスレまでずり落ちたのだ。このままの位置が保たれる保証はない。この牢獄が私の棺桶になる可能性がある。
ここが一体どこなのか、全く見当がつかない。海はどこまでも澄んで青く深く、陸地に辿り着くことは叶わないかもしれない。
だが、この牢獄で怯えて過ごすのは耐えられない。私は意を決して毛布を引っ掴み、窓辺に足を掛け、思い切って飛んだ。
着地したのは巨大魚の腹の上だ。ぶよぶよの脂肪がクッションになり、衝撃はさほど感じなかった。
巨大魚の死骸はゆっくりと波に乗って流され始めた。私のいた牢獄塔が遠ざかっていく。今はあの牢獄すら安寧の場所に思える。周囲は見渡す限りの大海原、どちらを向いても水平線しか見えない。
巨大魚の骸を船にしたあてのない航海だ。毛布を被って直射日光から身を守る。水も食料もない。この残酷なまでに美しい青は私の心を苛む。
***
太陽の日差しは容赦なく降り注ぎ、私の肌をジリジリ焦がす。毛布がなければ熱傷を負っていただろう。
巨大魚の骸は波間を漂い、どこに向かっているのか分からない。ひどく喉が渇いた。これほどの水があるのに、飲めば命を失うことになる。熱と乾きで意識は朦朧として、私は巨大魚の腹に倒れ込んだまま瞼を閉じた。
***
肌寒さを感じて目を開けると、星空が広がっていた。
巨大魚の骸はいつしか他の魚たちの餌になり、尾鰭が無くなっていた。そう遠くないうちに私は船すら失い、海に投げ出されてしまう。
遠くから呼び声が聞こえる。幻聴だろうか、もしかして、魚の腹の中のワタルが呼ぶ声だろうか。私は無反応だった。
しかし、また声は聞こえた。私は身を起こした。目の前に塔が見えた。円筒形の牢獄の窓から男が手を振っていた。
男は円筒形の窓からパジャマを結んで垂らしてくれた。私は必死で青い命綱にしがみつく。登る力は残っていなかった。男二人がかりの力で私は引き上げられた。
この牢獄は海面に近い位置で固定されていた。広さは私のいた場所の三倍、そしてここには複数の男女が共同生活をしているようだ。
私は水道にしがみつき、浴びるように水を飲んだ。水はこれまで飲んだどんな美酒よりも美味かった。
細身の若い女が遠慮がちに干からびかけた葡萄を差し出した。私は夢中でむさぼりついた。葡萄は酸味が強かったが、私は幸福感に包まれた。
ようやく正気を取り戻した私を、年齢も様々の複数の男女が遠巻きに見つめている。髭も髪も伸び放題のやつれた姿に、ここでの生活がそれなりに長いのだろうと思われた。
「あんたは一体どこから来たんだ」
年長の男が私に尋ねる。
「別の塔からだ」
「そこにいた仲間はどうした」
「わたし一人だった」
そう答えると、どよめきが起きた。ここは最初から複数人用に用意された場所なのかもしれない。
「なぜ神魚を殺した」
鋭い声が響き、場の空気が凍り付いた。部屋の奥から中年の女が歩み出た。白髪交じりの長い髪を振り乱し、この牢獄の誰よりも肌艶良く肥えていた。
口元はへの字に歪み、私に対する怒りを隠そうとしない。
「神魚ってさっきの魚か」
「神の使いを殺した。お前は厄災をもたらす」
私の言葉を遮り、女は叫んだ。周囲の男女だちは控えめに頷く。
「光の神殿を汚すものは神魚の贄にせよ」
大仰な身振りで女は両手を掲げた。まるで邪教の教祖だ。ここにいる者たちは無気力のあまり、彼女の言うことを盲信している。
多勢に無勢、疲弊した私はあっさりと取り押さえられた。
「明日の日の出と共に、母なる大海で浄化する」
信者たちは首を垂れる。誰もこの狂信を止めるものはいないのか。いや、わかっている者もいるはずだ。私がここに滞在すれば、食料の配分が少なくなるためだ。従うふりをするのは都合が良い。
誰も信じられない。私は絶望に打ちひしがれる。
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