第3話 隣人
窓辺に座り、眺める満天の星の美しさは格別だった。ここには海上に突き出たいくつかの白い牢獄以外、建物はない。都会のギラギラしたネオンはここまで空を曇らせていたのか。
見知らぬ男の死を見届けて、私はひどく動揺した。しかし、穏やかな波の音を聴きながら、輝く星を眺めているとなんだかどうでも良くなってきた。
夕方に思いついて確認すると、食料が届けられていた。きっと朝からここにあったのだろう。直射日光に長時間晒されて、トマトやブロッコリーは萎れていた。食料かごは毎朝確認する必要がある。
一体誰がこの牢獄を管理しているのか、まったく存在が掴めない。私のような小市民を捕えて何の得があるのだろうか。
夜風に当たりすぎて身体が冷え切ってしまった。そろそろベッドに横になろう、そう思ったとき。
「おおい、そこのあんた」
遠くから叫ぶ声が聞こえた。若い男の声だ。最初は幻聴と思った。私は声のした方を振り向いた。一番近い位置にある塔の牢獄の窓から髭面の男が手を振っている。近いといっても、三十メートルはあるだろうか。およそ手の届く距離ではない。
「聞こえるぞ」
私の声はうわずっていた。思い切り叫んだつもりだったが、ずっと喋っていなかったためにひどく掠れていた。この悪夢のような場所で生きた人間に出会えた。それだけで私は安堵した。
「あんた、新入りかい」
男は気さくな調子で声を張り上げる。
「そうだ」
よく見れば、男の頭も髭もぼさぼさに伸びきっていた。無人島にしばらく暮らせばこうなるだろう、という風貌だ。
「どのくらいここにいるんだ」
「長いよ、とても長い」
「ここは一体何なんだ」
「それもわからん」
男からは建設的な答えは一切返ってこない。
「ここから逃げる方法はあるのか」
「あったら俺が逃げてるよ」
確かにそうだ。これは愚問だった。
大声を張り上げて叫び続けたせいで喉がカラカラだった。男とはまた会話をしよう、と約束して寝ることにした。彼の名はワタルといった。私は彼に倣ってケンゴと名乗った。
その夜、私は興奮して眠れなかった。この不可解な状況を共有する隣人が出来たことが嬉しかった。
***
太陽が登り始めると、水道で顔を洗い小便を済ませ、食料かごを確認する。今日の食材は冷え切った固いナンとマンゴー、とうもろこし、卵だった。卵は日を置くと鮮度が落ちて食べられない。割ってみると、当然だが生だ。私は生卵を喉へ流し込んだ。
ワタルを呼んでみたが、返事が無い。まさか、海に落下したのだろうか、脳裏に不安が過ぎった。だが、それは杞憂だった。
太陽が南中に上がった頃、名を呼ぶ声が聞こえた。彼は朝が弱く、起床するのはいつも昼前だという。
「おはよう」
「おはよう」
当たり前の挨拶ができることが嬉しい。それから聞き出せたのは、ワタルも目が覚めると知らぬ間にここに連れて来られたこと、毎日食料が配給されること、水が途切れる心配はないこと。そして、この牢獄の事情を知る人間には会ったことがないということだった。
「知ってるかい、ケンゴさん」
ワタルは窓際に腰掛けてマンゴーにかじりつく。
「この牢獄塔って、少しずつ動いているんだぜ」
言われてみれば、昨日よりもワタルのいる塔が近付いている気がした。
「近付いたり、離れたり、ぶつかることはないけど」
以前、隣り合わせになった牢獄にいた老婆から朝から晩まで愚痴を聞かされた、と笑う。
ここに囚われているのは男だけではないのか。それにワタルはおそらく二十代、私は四十手前で年齢もバラバラだ。囚人の共通項が分かれば、この牢獄の謎が解けるのかもしれない。ワタルがいることで気が紛れたし、微かな希望が湧いてきた。
***
翌朝、食料かごをのぞくと、何も入っていなかった。私は戦慄に青ざめる。今日から配給が止まってしまったのだろうか。そうなれば、ここで摂取できるものは水しかない。ゆるやかに餓死することになる。
私は慌ててワタルを呼んだ。食料の供給が休みになることがあるのか尋ねたかった。六日間配給され、七日目は休みなら構わない。サイクルが分からない今は不安が増幅するばかりだ。
ワタルの塔とは昨日よりも距離が縮まっていた。
「おおい、ワタルくん、起きてくれよ」
私は焦燥に駆られ、声を張り上げる。三度呼んでみたが、返事はない。
今日は雲が多い。太陽が厚い雲に隠れると、コンクリート製の牢獄はひんやりと冷気を纏う。太陽の光が弱いと海の青はくすんで見えた。私はもう一度ワタルを呼んだ。すると、窓辺にワタルが姿を見せた。
「ケンゴさん、早いよ」
ワタルは面倒臭そうにもじゃもじゃ頭を掻きながら大あくびをする。
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