第2話 大海に聳える塔
目が覚めると、窓から目映い光が射していた。まるで白い牢獄全体が輝いているようだ。網膜に強烈な閃光を浴びて、私は思わず目を細めた。
今は何時だろう。アパートの部屋で寝起きしていたときは、目覚まし時計のアラームを午前八時にセットしていた。ここに目覚まし時計は無いが、窓から差し込む朝陽の角度からすると、辛うじて私の体内時計はまだ狂っていないようだ。
窓の外の色が違う気がきして、私はガラスで仕切られていない窓辺に立った。
「なんだと……」
私は絶句した。これは夢だろうか、夢だとしたら酷い悪夢だ。
目の前に無限の青が広がっていた。太陽の光を浴びて眩く輝く大海原だ。彼方には水平線が伸びて、陸の影は見えない、
そして異様なのは、海の真ん中に白い塔が立っていることだ。塔は海中からまっすぐ空に向かって伸びている。そして先端には円筒形の窓がついた部屋、いや牢獄がついていた。
まるで四半世紀前の観光地でよく見かけた展望台のようだ。おそらく、私のいる牢獄もあの塔から見れば同じような形状なのだろう。
窓から見下ろす海は背筋が寒くなり血の気が引くほど遠い。ここから飛び込めば、コンクリートの地面に叩きつけられたのと同じ衝撃を受けて身体は木っ端微塵になるだろう。
残酷なまでに穏やかな波の音が遠く近く聞こえている。
私は窓辺にへたり込んだ。床に揺らめく光の眩さに目を閉じた。もう一度目を開けたら、いつも暮らしていた手狭なアパートに戻っていないだろうか。そして、私は顔を洗って髭を剃り、パンとコーヒーで朝食を済ませて満員電車に乗る。
そんな当たり前でつまらない日常が途端に恋しく思えた。
はたと気がついて、私は立ち上がり窓辺にしがみつく。
「おおい、誰か、誰がいませんか」
私は声の限り叫んだ。私と同じ状況で、途方に暮れている人間があの牢獄にいるのかもしれない。私は希望を抱いた。
目の前に見える白い塔は三本だ。手を伸ばして届くような距離ではないが、叫べば聞こえないほどではない。
耳を覚ましてみるが、返事はない。聞こえるのは遥か遠い足元で波が揺らめく音だ。
「聞こえたら返事をしてくれ」
私の声は惨めなな響きを帯びていた。空と海は澄んでただ青く、目の前の白い塔は絵画のようにそこに建つだけだ。
ふと、二本向こうの塔に何が動くものを見つけた。よく目を凝らして見ると、窓のところに人影が見えた。成人男性で、私と同じような青いパジャマを着ている。
私の心に希望が芽生えた。あの男と話ができれば、この不可解な状況に放り込まれた経緯がわかるかもしれない。
「おおい、あんた、聞こえるか」
私は二本向こうの塔の窓辺の男に呼びかけ、必死で手を振る。しかし、男は声が聞こえていないのか、私の声に何の反応も示さない。
「あっ」
私は驚きのあまり叫び、身を乗り出す。
男が窓に足を掛けたかと思うと、真っ逆さまに海へ転落した。さながら持ち主を失った人形のように。
男は海面に激突し、白い飛沫が上がった。
「そんな、なぜ」
私は震えが止まらなかった。目の前で人が死ぬのを初めて見た。あまりの現実味の無さは、コンクリートの窓をフレームにして映画でも観ているようだった。
私は海面に男の身体を探した。青いパジャマが波間に浮かんでは消える。そのうち何も見えなくなった。
呆然と凪いだ海面を見つめていると、塔の支柱付近の海の青が突然濃くなった。海中に何かがいるようだ。影の部分だけ白波が立ち始めたかと思うと、海中から巨大な魚が出現した。
鯨のような黒い巨体は大きな口を開けた。上下にぐるりと鋭い歯が並んでいた。巨大魚は水面に跳ねてぬるりとした黒い肌をしならせ、また海中へ潜っていった。
もしや、海中に落下したあの男を狙っていたのだろうか。それに気づいた瞬間、私は窓から遠ざかり、硬い椅子に腰が抜けたように座り込んだ。
この牢獄の周囲は海に囲まれている。ここから飛び降りることはできないが、どうにかして海面に辿り着いたとしても、あの巨大魚が鋭い歯を剥き出しにして待ち受けている。
脱出の手立ては完全に塞がれている。
私は恐怖と絶望のあまり、その場からしばらく立ち上がることができなかった。気がつくと、赤い夕陽が牢獄を照らしていた。太陽は昇り、沈む。これまでの生活と同じなのはそれだけだ。
私もいずれ、絶望感に打ちひしがれ、あの窓から飛び立つのだろうか。
水平線に融解してゆく夕陽を見つめ、私はこれが白昼夢であることを祈った。
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