第8話 大絶叫の事態
フィリスは部屋の扉に耳をつけて外の気配を探っていたが、何も聞こえなくなってからそこを離れた。
(サイラは無事に逃げられたか……)
安心したのか、残念だったのか、自分でもよくわからないため息をついていた。
それから床に転がっていた剣を拾うと、いまだ気を失ったままの衛兵の頬を剣先でピタピタと叩いた。
少々手荒に扱い過ぎてしまったらしく、すぐに目を覚ます様子がない。
おかげで、サイラと別れを惜しむ時間ができた。ずっと焦がれ続けた彼女に触れて、その香りを存分に吸い込み、極上の甘い口付けを味わうことができた。
あの瞬間、死んでも悔いはないと思った。しかし、その次の瞬間、身体が燃えるように熱くなって、もっと触れたいという抗いがたい欲望と戦うことになっていた。
サイラがここを立ち去った後も、追いかけたくて仕方がなかった。しかし、彼女は絶対助けに戻ると言ってくれた。
再び会う機会は必ずある。そう自分に言い聞かせて、この部屋から飛び出したくなる衝動を抑えた。
実際、もう半年くらいは一人でも正気を保てるかもしれないのだ。
現に気を失っている衛兵を目の前にしても、喰らいつきたいという欲求が微塵もわいてこない。どうやらサイラと過ごす間に、呪いの症状がすっかり収まったらしい。
(……いや。たとえ、症状がぶり返したとしても、もう一度サイラと会うためなら、意地でも正気を保ってやる……!!)
何度か頬を叩いているうちに、衛兵が唸りながら目を開いた。
直後、フィリスの姿を目にして、恐怖に顔を歪ませながら這い逃げようとする。
「動くな」と、フィリスは衛兵の喉元に剣を突き付けた。
「フィ、フィリス殿下……!!」
「ジェニールに命じられたのか?」
衛兵は剣の先に視線を止めながら、何度も小刻みに頷いた。
「弱みでも握られているのか?」
「む、息子が重い病で……。特別な薬が必要なのですが、なかなか手に入らないもので……」
「ここにいる娘を殺せば、ジェニールが都合をつけてくれるとでも?」
衛兵が震えながらも頷くので、フィリスは小さくため息をつきながら剣を引いた。
「娘はすでに逃げた。失敗したことが発覚すれば、お前も口封じに殺される。死にたくなかったら、さっさと荷物をまとめて家族と一緒に王都を出ろ」
「……わ、私を殺さないんですか?」
「お前のような者を殺して処刑されるのは御免だ。だから、早く行け。扉にカギをかけるのも忘れるな」
衛兵は恐る恐るといったように起き上がり、逃げるように部屋を飛び出していく。
扉が閉まってカギがかかってから、フィリスはベッドに寝転がった。
しばらくサイラが使っていたので、まだ彼女の香りが残っている。気を狂わせるような甘い香りだ。それを鼻の奥まで吸い込むと、やはり身体の芯が熱くなるのを感じた。
(まさかサイラの匂いで刺激されていたのが、食欲ではない方だったとは……)
そんな彼女の香りに包まれながら、フィリスは自分の内なる熱が冷めるのを待っていた。
突如、激しく叩かれる扉の音に、フィリスは弾かれるように飛び起きた。束の間、うとうとと眠りに落ちていたらしい。
「兄上、夜分遅くにすみません。アリーシアです。ご無事だけ確かめたいので、どうかお声をください」
面会を断ってから一度も来ることのなかったアリーシアが来た。その切迫した声からも、何かあったとすぐに察しがつく。
「どうした!?」
フィリスは慌ててベッドから下りて、扉に駆け寄った。
「ご無事のようで何よりです」
アリーシアがほっと息を吐く音が聞こえたが、その口調からフィリスがまだ理性を保っていてよかった、というようには聞こえなかった。
「何かあったのか?」
「ここの衛兵が一人行方不明になっています。こちらに来ませんでしたか?」
「ああ、来たが、先ほど逃がしたところだ。サイラ――ジェニールにここに放り込まれた娘を殺そうとしていた。失敗したことがわかれば、ジェニールに殺されるだろう。今頃逃亡する準備をしていると思うが」
「やはり、ジェニールが兄上を狙っていたんですね」
「気づいていたのか?」
「いえ、私は遠征に出ていて、先ほど戻ったところで。ジェニールがサイラという娘を北の塔に収容したという報告を受け、もしかしたらと思い、慌てて駆け付けたのですが」
「あいつが考えそうなことくらいわかるか」
フィリスはふっと笑っていた。
「それでサイラを迎えに来た者に託したのですか?」
「迎えに来た者? いや、彼女はその衛兵が扉を開けた時に逃がした。ここに置いておいたら、何度でも狙われるだろう」
「そういうことでしたか」と、アリーシアが納得いったというように息をついている。
「アリーシア、サイラを知っているのか?」
「ええ。こちらに一度来た時に保護しました。今は北の塔からの脱走者として兵に追われる身ですので、私の知り合いの宿屋にかくまってもらっています」
フィリスはその言葉を聞いて、安堵する以上に自分が喜びに打ち震えるのを感じた。
アリーシアがサイラを保護しているとなれば、ジェニールに二度と狙われることもないだろう。それどころか、自分が正気を失いそうな時には連れてきてもらうことも可能になる。
「アリーシア、サイラは僕にとって命より大事な人なんだ。どうか丁重に扱ってくれ」
「もちろんです」
(半年乗り切って、僕の呪いが解けた暁には――)
そんな考えはバカげていると思っていたが、現実に起こりえることになった。
(今ならサイラとの未来を考えてもいいのだろうか。再びあの身体を力強く抱きしめ、甘い唇を味わいたい。その先も――)
サイラの身体と唇の感触が蘇り、思わず陶酔してしまったが、「兄上」とアリーシアの呼ぶ声で現実に引き戻された。
「具合でも!?」
「……あ、すまない。ぼうっとしていた」
「兄上が!?」と、アリーシアが素っ頓狂な声を出す。
「……そこまで驚くことはないだろう。僕にもそういう時くらいある。それで?」
「いえ、ずいぶん正気の様子だと思いまして」
「ああ、サイラがいてくれたおかげで、呪いの症状が収まっているようだ」
「それはつまり、呪いが解けたということですか?」
「いや。瞳は鏡がないので確認しようがないが、ツノは生えたままだ。サイラがいなくなって、この先どうなるかは――」
フィリスが無意識に自分の額に触れた途端、手の中から何かが滑り落ちた。
カランと床に固い物が当たる音がする。
「何だ……?」
足元には黒い尖った物が落ちていた。拾い上げてみると、小さなそれは硬くて宝石のように光っている。
フィリスがはっと息を飲んで再び自分の額に手を伸ばすと、つるりとした自分の肌に触れるだけだった。
「ああぁぁぁぁ!」
フィリスは衝撃のあまり、人生で初めて大絶叫というものを上げていた。
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