第7話 急ぎ北の塔へ(後)

 上に向かう階段は一本。誰かいるのならこの階段の途中で会うはずだ。


 アリーシアは人の気配を探りつつ、慎重に石階段を上っていった。


 フィリスのいる最上階の近くまで来て、不意に人の声が聞こえてきた。


「……あ、こら、そんなに舐めるな……オレの分が……」


 階段の上に誰かいるのは確かだ。


 聞き耳を立ててみたが、何の話をしているのかわからない。


 アリーシアは息をつめて壁に身を隠しながら最上階を覗き込んだ。


 そこには一人の男がしゃがみこんでいた。明らかにここの衛兵ではない。


 そして、男の足元には少女が顔から血を流して倒れていた。その黒髪を見て、ジェニールが森で見つけた娘だとすぐにわかる。


(賊は一人なのか?)


 その男以外に姿は見当たらない。少女がピクリとも動かないのに、話し声が聞こえたというのが奇妙だ。


 気配を消していたはずなのに、男ははっとしたように突然立ち上がると、アリーシアを鋭い視線で振り返った。アリーシアもすかさず剣を抜いて男に向ける。


 相手は丸腰。だからといって、気を抜く理由にはならない。均整の取れた身体付きからして、体術使いの可能性は否定できないのだ。


 注意深く相手の出方を探らなければならないところなのだが――正直、アリーシアは目をそらしたくてたまらなかった。


 男は丸腰だとひと目でわかる素っ裸なのだ。しかも、アリーシアとさほど歳の違わない青年。年頃の娘が直視できるものではない。


(どうして恥ずかしげもなく、下半身をさらしているんだ!? 少しは隠せ!)


 そのまま言葉にしたいところだったが、アリーシアはゴクンと飲み込んだ。


 戦場で敵が裸だからといって怯んでいたら、自分が殺されてしまう。


「その娘をどうするつもりだ?」


「連れて帰って、オレの子を産んでもらう」


 耳を疑いたくなるような答えが返って来て、アリーシアは一瞬ポカンとしてしまった。


(……こ、ここは質問が理解されなかったと考えよう)


「その娘に危害を加えるつもりがあるのか聞いているんだ」


「失敬な。オレをクズ野郎と一緒にするな。オレはサイラに傷一つ付けない」


「その娘、血を流しているようだが?」


「これはオレじゃない! さっき突然鼻から血を流して、倒れちまっただけだ!」


 青年は焦ったように言う。


『いや、お前のせいだろう』と、アリーシアは突っ込みたかった。


 どう見ても、少女が男の素っ裸を見て鼻血を出して倒れたとしか思えない。


 ともあれ、青年から殺気は感じられないし、少女とも知り合いのようだ。この青年の侵入した目的が少女の奪還というのは間違いないだろう。


「鼻血は放っておいたら止まらないぞ」


 アリーシアは剣を鞘に収めながら言ってみた。


「そうなんだ。先ほどから舐めてるんだが、ちっとも止まらなくて困ってる。このままじゃ、サイラの血がなくなって死んじまう」


「止血してやろうか?」


「できるのか?」


 青年は疑り深い目でアリーシアをジロジロと見つめてくる。


「それくらい大したことではない」


「……お前、メスだな。なら、頼む」


 男には触らせたくないのだろうか。


 そんなことを思いながらアリーシアは階段を上り切って、少女の傍らに膝をついた。


 ポケットから手拭いを取り出し、彼女の小鼻をそれで押さえる。喉に血が流れて行かないように、首の下に腕を入れて頭を少し起こしてやった。


「それはマントか? お前はそれでも羽織っていてくれ。目のやり場に困る」


「ふむ。やっぱりそうなんだな」


 青年は素直に足元に落ちていたマントを拾うと、自分の身体を包み込んだ。


(『やっぱり』とは、こちらを油断させるためにわざと見せていたのか!?)


 アリーシアは思わずギッと睨みつけたが、彼は気に留める様子もなく、心配そうに少女の顔を見つめているだけだった。


「……連れて帰ると言っていたが、どこに連れて行くつもりだ?」


「森までだ。みんなサイラの帰りを待ってる」


「お前はこの娘と一緒に森で生活していたのか?」


「そうだ」


「その森には私も何度か行ったが、人間には会ったことがなかったな。お前のような人間が他にも住んでいるのか?」


「いや、今のところオレだけだ」


「先ほど『みんな』と言っていなかったか?」


「オレたちの仲間のことだ。獣や鳥だから、人間とは言わない」


「そういう意味か。それで、この娘も一緒に生活していたと。いつからだ?」


「サイラは冬眠明けのクマがウロウロする頃に来たから、わりと最近だ」


 クマの冬眠が明ける時期といったら、春の芽吹きの頃――


(やはり探していたのはこの娘か……!!)


 アリーシアはゴクリと息を飲んだ。


「それからどうしたんだ?」


「サイラが人間を恋しがるから会わせてやった。けど、その人間がクズでサイラを傷つける。だから、助けに来たんだ」


 どうやら先ほどから『クズ』と言っているのはジェニールのことらしい。


(……まあ、それは私も同意するが)


「そうか、それは申し訳ないことをした。今さらと思われるかもしれないが、彼女を私に預けてもらえないだろうか。彼女は国にとって大切な人間なんだ。丁重に扱わせてもらうと約束する」


 青年は言葉の真意を測るようにアリーシアをじいっと見つめていたが、やがてふいっと顔を背けた。


「オレが一緒にいてもいいなら、預けてもいい。もしもサイラを傷つけるようなことをしたら、オレはお前を喰い殺す」


「それでかまわない」


「そうか?」と、青年は意外そうな顔をしていた。


「話はわかってもらえたようだから、ここから移動しよう。近くに知り合いの宿屋があるんだ。鼻血は一応止まったが、ゆっくり休ませた方がいい」


 北の塔に賊が入ったことは、入口に倒れていた衛兵が応援を呼びに行けば、すぐに王都中に知れ渡って騒ぎになる。この場はすぐに立ち去った方がいい。


 フィリスの様子を見に行きたいところだが、侵入者の目的がわかった以上、この少女を保護する方が先だ。


 ここまで来て、連れ去られては元も子もない。


「ちゃんと寝床があるのか?」と、青年が確認してくる。


「もちろん、宿屋だからな」


「ならいい」


「その娘を運べるか?」


「たやすい。サイラは思ってたより、ずっと小さくて軽いからな」


 青年はそんな意味不明なことを言いながら、少女を大事そうにそっと抱き上げた。


 それから二人で歩き出すと、どこからともなく小さなサルがやって来て、青年の肩にちょこんと座った。

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