第6話 魔物の呪いにおかされて
夜、フィリスはサイラにベッドを譲り、自分は毛布にくるまって床に横になっていた。背後からはサイラの静かな寝息が聞こえてくる。
いつ喰い殺されてもおかしくないというこの状況で、よく眠れるものだと感心を通り越してあきれてしまう。
フィリスはゴロリと寝返りを打って、ベッドの上のサイラに視線を向けた。
呪いの影響で視力が上がっているのか、暗闇の中でもサイラの姿かたちがはっきりと見える。
今朝、突然フィリスのベッドの中にいた少女――。
驚いたのはフィリスも同じだった。
このところずっと眠れなかったのに、昨夜はそんな少女が運び込まれたことにも気づかないほど眠り込んでいた。
誰かがこの部屋の扉を開くために夕食に眠り薬を入れたらしい。それが呪いにかかった者から身を守る安全策だということを、フィリスも知っていた。
サラサラの黒い髪を持った少女は、ひと目でこの世界の人間ではないとわかる風貌だった。
凹凸の少ない顔立ち、すっきりした目元もこの辺りで見かけることはない。この国どころか、世界の常識をまるで知らないところを見ても、それは間違いなかった。
『どこから来たのか』という問いに対し、案の定、返ってきた答えは『ここではない世界』。
それは召喚された聖女が口をそろえて言っていたことと同じだった。
だから、フィリスは最初、彼女が召喚された聖女ではないかと思った。しかし、それには時期が早すぎる。ならば、聖女のようにこの世界に必要な人間として、誰かに何かしらの目的で呼ばれたのか。
サイラ自身もその理由をはっきりとは知らないらしい。
『二人で呪いの症状を抑えながら聖女の召喚を待ち、ここから無事に出る』
サイラの言っていた通り、もしもこれが本当の目的だったとしたら――
(そのためにサイラがこの世界に呼ばれたというのなら、僕にはまだ生きてやるべきことがあるということなのか。今はまだ死ぬ時ではないと)
フィリスが物心ついた時、魔物の被害で世界はすでに崩壊の兆しを見せていた。幾種類もの獣や鳥は絶滅し、世界の人口も減少の一途をたどっている。
今は誰もが血を吐くような思いで、百年に一度召喚される聖女を待っているところだ。
フィリスはこの国の第一王子だが、母親が側室のため、王妃が第二王子のジェニールを産んだ時点で王位を望む立場ではなくなった。
それでもフィリスは王族の一人として国と民のためにできることがあると、勉学にいそしみ、身体を鍛えた。いつか王位を継ぐジェニールを支えたいと思っていた。
ところが、ジェニールは母親であるマリエラ王妃に甘やかされて育ったせいか、いつまでたっても政に興味を示さず、自分の好きなことばかりに時間を費やしていた。出自がいいことを理由に、当然のように次期国王になると疑ってもいない。
このままジェニールが王位を継いだら、この国の未来はどうなってしまうのか。
そんな危機感を持っていた国の重鎮たちが少なからずいた。そして、彼らは次第にフィリスを王太子にと望むようになっていった。
結果、ジェニール派とフィリス派の間で王国議会は二分し、ただでさえ魔物の被害で荒れていた国がさらに乱れる原因となった。
フィリスが辞退すれば、そんな対立はすぐに収まる。それでも、未来をジェニールに託すくらいなら自分が王位に立った方がいいと、フィリス自身も譲ることはできなかった。
そんな矢先、フィリスは魔物討伐に行ったジュードの森で魔物による傷を負った。
手のひらを少し切った程度の軽傷だったが、検査の結果、唾液から魔物の呪いが検出。そのままこの北の塔に幽閉が決まった。
聖女召喚の儀まではまだ一年以上あった。それはつまり、死を宣告されたも同然。フィリスは王位継承権を失い、王位争いもそこで終わった。
それでも死んだ方がマシだと自ら命を絶とうと思わなかったのは、呪いによる自覚症状がなかったからだ。
それに毎日のように面会に来る母親や妹の励ましもあった。
『あと一年と三か月、理性を失わずにいられれば、聖女に治してもらえます。だから、それまで耐えて』と。
呪いの症状が出る時期には個人差がある。自制心の強さが関係するのであれば、フィリスは自分に自信があった。
自分なら聖女の召喚まで正気を保ち続けることができると。
この病室とは名ばかりの牢獄に閉じ込められていても、きちんと食事と運動をして健康を保つ努力をした。有り余る時間は本を差し入れてもらって読書にあてた。
それまで仕事に追われてゆっくりと本を読む暇もなかったのだ。読みたい本はいくらでもあった。
一年くらい人生の休暇だと思えばいい。そんな風に考えるくらい心身ともに今までと変わりなく、平和な毎日を過ごしていた。
そんな日々が変わり始めたのは、ここに幽閉されて半年近くが経とうとした頃だった。
最初に自分が呪いにかかっていると自覚したのは、額の真ん中にコブのような物ができていることに気づいた時だった。
日に日に大きくなるそれは、やがて皮膚を破って黒く尖ったツノに変わっていく。鏡を見れば自分の緑の瞳も魔物特有の赤に染まり始めていた。
人間ではないものに変わりつつある――。
そんな醜い自分を見るのが怖くて鏡を叩き割った。
ツノが生え始めるのと同じ頃から喉の渇きを覚えるようになった。水を飲んでも癒すことのできない激しい渇き。それは血を欲しているからだと、すぐに気づいた。
それからじきにパンや野菜が食べづらくなり、食べても満たされない空腹感に襲われた。
身体は栄養を必要とするもの。食べなければ脳の機能も低下して、余計に理性を保ちづらくなる。だから、出される食事を無理やりのように喉に流し込んだ。
同時に嗅覚も鋭くなってきたのか、食事を差し入れる衛兵の指先の匂いにさえ反応し、喰いつきたい衝動が襲ってくるようになった。
扉越しに面会に来る家族に対しても同じだった。そこに人間がいると思うだけで、余計に血肉への渇望が増す。
だから、「もう来ないでくれ」と言うしかなかった。
脳の機能が低下し始めているのか、本を読んでも内容が頭に入らなくなって読書もやめた。
喉の渇きと飢えを抱え、それを紛らわせるために運動は続けたが、夜はなかなか眠れなかった。
ただただ一日中血をすすり、生肉を喰らうことだけを夢見る毎日が続く。
時折、自分の腕に噛みつきそうになって、それを抑える。
抑えなければこの苦しみから解放されて楽になれることをわかっていながら、まだそれを拒否するだけの理性は残っていた。
それは理性とは名ばかりの、至極動物的で原始的な生存本能でしかない。人間以外で自ら命を絶つ生き物はいないのだ。
それができない自分はすでに人間ではなく、もう魔物なのだと認めるしかなかった。
そう、つい昨日まではそんな状態だった。
今この時も、サイラからは甘く芳醇な香りが漂ってくる。それは生唾が口の中にあふれるほど食欲を刺激する。しかし、今日一日、その衝動を抑えることができた。
血肉への欲求を抑えるために家族でさえ遠ざけたのに、サイラとは話をすることができた。
無理やりのように食べていたパンが、当たり前のように喉を通った。
サイラがそこにいるだけで、脳が正常に機能するようだった。
それはつまり、サイラが別の世界から呼ばれた特別な存在という証に他ならない。
明日、明後日とこんな毎日が続いていったとしたら、聖女の召喚までこの呪いの症状を抑えられる。そして、この呪いから解放される時が来る。
(サイラは僕を救うためにこの世界に来てくれたのか?)
そうであってほしいと期待してしまうくらいに、どうやら自分は冷静さを欠いているらしい。
フィリスは苦笑して、それからサイラに背を向けて目を閉じた。
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