第5話 イベント発生はまだですか?

 朝日が昇って目が覚めるたびに、洞穴の壁に『正』の一画を炭のかけらで書く。それが彩良の日課だ。


「一、二……」と数えて、六つあることに気づいたその朝、彩良は愕然として炭をポロッと取り落としていた。


「あ、ありえない……。こっちに来てひと月も経つのに、イベントが発生しないとか。冗談じゃないわよー!!」


(……いや、まあ? こんな生活をしながら、生き延びられてることを褒めてあげる方が先かもしれないけど)




 このひと月を振り返ってみれば、次から次へとやってくる動物たちの貢ぎ物(たいていは食料)のおかげで、彩良はひもじい思いをすることはなかった。


 本当ならば、川の水も沸騰させてから使いたいところだったが、お湯を沸かす鍋もヤカンもない。至れり尽くせりの道具がそろったキャンプとは勝手が違うのだ。


 住居はクマ子が見つけてきてくれた洞穴を異世界生活五日目にして確保。今の時期は程よく暖かく、パジャマ一枚で過ごしてちょうどいい気候だ。


 しかし、雨が降ったり、これからもしも冬になったりしたら、野宿というわけにはいかない。やはり屋根のある住居は必要だった。


 岩に囲まれた洞穴住居はそれなりに広く、奥に入れば入口から風も入って来ない。夜はウルとクマ子のモフモフ毛皮にはさまれて、お布団いらずの最高の住居だ。


(……最高? 洞穴が?)


 彩良の頭にそんな疑問がふとよぎるが――


(いやいやいや! このナイナイづくしの生活の中で、天気の心配をしないで寝られるのは最高じゃないの。贅沢は敵よ!)


 衣食住、残る問題は『衣』だった。


 受験で使ったばかりの中学の歴史の教科書を思い出してみても、衣服というのはかなり昔から『織物』だった。


 材料の綿花や麻(どんなものか知らない)も見つからないし、たとえ見つかったとしても、そこから糸を作る方法がわからない。モフモフの毛皮を持っている動物もいるが、毛を刈り取ったところで同じ問題が発生する。


 さらに昔に遡って、『毛皮』というものも思い付いたが、服のために動物の皮を剥ぐのは心が痛む。葉っぱで大事なところだけを隠すレベルまで落としてしまったら、何か人間として大切なものを失ってしまいそうだ。


 結局のところ、今着ているパジャマを洗いながら大事に着る、という結論にしかたどり着けなかった。




 サバイバル生活といっても、毎朝川へ顔を洗いに行って、夜寝るまでの間、特に何かしなければならないというものはない。学校もないし、娯楽もない。意外と時間があったりする。


 その時間を利用して、彩良は割った石でナイフを作ってみた。包丁ほどの切れ味はないが、それでも薪用の枝を切ったりするには充分使える。


 ススキのような細い茎の植物を見つけたので、それを切り集めて筵も編んだ。洞穴の入口にかけたりゴザにしたりすると、洞穴住居も少しずつ快適さが出てくる。


 ウサギや鳥、イノシシなどの貢ぎ物も、最初は抵抗があって、ウルを始めとする他の肉食獣に食べてもらっていたが、魚と果物も十日も食べ続ければ飽きてくる。


 やがて『鳥くらいは食べてもいいかなー』と、羽をむしってナイフを使って内臓を取り出し、肉の部分を火で炙って食べるようになった。


 そのおいしさにハマって、最近ではウサギにまで手を付けるようになっている。そして、剥いだウサギの毛皮は集めて、いずれは服を作るつもりだ。


 どうやら『生きるため』という大義名分の下では、かわいいウサちゃんでさえ食料と服の材料にしか見えなくなるらしい。


 とにかくこんな生活にも慣れてきたし、今後の見通しもある程度立てられた。しかし、一向にイベントが発生しないのはどういうことなのか。


 このひと月で色々な動物と仲間になり、ずいぶん大所帯になってきた。いちいち名前も付けなくなってしまうレベルだ。これでもまだ戦いに向かうには仲間が足りないというのか。


「動物の仲間もいいけど、そろそろ人間ともおしゃべりしたいなぁ」


 動物たちに彩良の言葉は通じるようだが、返事はいいところ『はい』か『いいえ』程度のジェスチャー。会話をするところまではいかない。いつも彩良が一方的に話をするだけの関係だ。


 そもそもそんなことを思い始めたのは、クマ子を始め、何匹かの仲間がいつの間にかカップルになっていて、そのパートナーを紹介しに来るようになったからだった。


 もちろん彩良は「おめでとう」と喜んであげるが、同じ種族同士仲良くしている姿を見ると、少し淋しくなってしまう。


 あたしだって、別にカレシじゃなくていいけど、せめて話ができる女友達くらいほしいよ。




「ウルはカノジョ作らないの?」


 彩良は洞穴の前で夕食用の火をおこしながらウルに聞いた。


 そういえば、ウルからはまだ紹介されていなかったのだ。


 隣でお座りをしていたウルは、ペロリと彩良の唇を舐めてくる。


「ウルまでカノジョとイチャラブ始めちゃったら、あたしは淋しいよ」


 ウルを見ると、どこか悲しそうな目をしていた。


「もしかして、内緒のカノジョがいるの!?」


 ウルは慌てたようにプルプルと首を横に振る。


「よかったぁ。独り者同士、これからも仲良くしてね」


 ふと気づくと、先ほどまですぐそばで寝ていたクマ子がのっそりと起き上がるところだった。意味ありげにウルと視線を交わした後、森の方へ歩いていく。


(ご飯を探しに行ったのかな? 今夜は異世界生活ひと月のお祝いに、初挑戦のイノシシをみんなで食べようと思ってたのに)


 それきりクマ子は夜になっても戻ってこなかった。


 彩良はこちらに来て初めてクマ子のモフモフベッドなしで眠ることになり、なんだか寒々しい夜を過ごした。




***




「最近、クマ子、あんまり姿を見せないねぇ。やっぱりカレシができたせい?」


 彩良は川でパジャマとパンツを洗濯しながら、それを見守っているウルに声をかけた。


 意味がわからないのか、ウルはどこか遠い目をしたまま何の反応もしない。


 今日は朝から晴天で湿気も少なく、洗濯日和だ。パジャマを脱いで素っ裸で洗濯することにも、いつの間にか恥ずかしいと思わなくなってしまった。


 だいたいこのひと月半、人間には一度も遭遇しなかったのだ。おそらくこの森にはいないのだろう。動物相手に裸を見せて恥ずかしがるのもおかしな話だと、そこは開き直ることにした。


 青空の下、素っ裸でいると、人間としての尊厳を忘れてしまった気がしないでもないが、その反面開放感があって、慣れると実は気持ちよかったりする。


(どっかの国ではヌーディストビーチっていうのがあるって聞いたことあるもんね。それとおんなじよ)


 彩良がフンフンと鼻歌を歌いながらご機嫌で洗濯を続けていると、不意に木立がざわめく音が聞こえてきた。


 森の方を振り返ると、風もないのに木の枝が揺れ、一斉に鳥たちが大空に飛び立っていく。


 この森で生活を始めて以来、こんな風に騒がしいのは初めてだった。


「何かあったのかな……?」


 彩良がつぶやくと、同じく森の方に視線を移していたウルが振り返った。


「どうしたの?」


 ウルはゆっくりと近づいてくると、飛びつくように彩良の両肩に前足をかけ、それからペロッと唇を舐めてきた。


「もう、どうしたのよー。甘えてるの?」


 彩良がくすっぐったさに笑うと、ウルはさっと身を引き、悲し気な目でじいっと見つめてきた。


 それから、ウルは一歩後ずさりした後、身を翻して上流の方へ走っていってしまった。


「ウル、どこに行くの!? 戻っておいで!」


 追いかけようと彩良は慌てて立ち上がったが、その拍子に洗濯中のパジャマのズボンが手から滑り落ちてしまった。


「ああー!! あたしの一張羅がー!!」


 先日のイノシシのおかげで毛皮のスカートくらいは作れそうだったが、それでもこの生活において、コットン生地のパジャマは貴重だった。なにせ身体を洗うのにも使えるものなのだ。


 今はウルよりパジャマのズボンの方が優先。


 彩良は川を流れていくパジャマを追おうとしたが、突如聞こえてきた地響きに森の方を反射的に振り返っていた。


 その地を揺るがすような音はこちらに向かって近づいてきている。


「え、なに……?」


 ややあって森の茂みの中から飛び出してきたのは、恐ろしい勢いで走ってくるクマ子だった。


 彩良が唖然と見つめる中、クマ子は目の前で急停止すると、森を振り返って歯をむき出しに威嚇を始める。


 いつもノホホンとしていて、ゴロゴロしてばかりいるクマ子。こんな風に野生そのままの姿は見たことがなかった。


 さすがの彩良も何かが起こっていると直感的にわかる。


「川岸だ! 全員展開して回り込め!」


 久しぶりに聞く人間の言葉――しかも日本語だ。

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