第26話:大會【肆】
消毒液の香りと、白い天井。
そこが病院だと理解するまでに、時間はかからなかった。
「起きたか」
すっかり聞き慣れた低音。
「あの袴のやつは、逮捕されて拷問送りだ。あとお前の友人は、昨日のうちに起きて退院した。お前に礼を言って帰って行ったよ」
「そう、ですか……」
さらに、啓に礼を言って帰って行った。
――つまり、あの日の会話を、聞いていなかった可能性が高い。
啓は内心ほっとした。
小さく息をつくと、啓は改めて來良を見た。
「すみません。心配をかけました」
「謝るのはこっちだ。危険そうだと思いながら、啓だけに任せてしまった。……せめてサポートを厚くすべきだった。危険な目に遭わせて、本当にすまなかった」
來良は深々と頭を下げる。
啓はまだ重たい腕をなんとか持ち上げると、來良へと伸ばした。
「顔を、上げてください」
従うように、來良は顔を上げる。伸びた啓の手を支えるように握った。
「來良さんが言っていたこと、身に染みて分かりました。『相手をよく見て、向き合う。強さを認める。それが大事だ』って」
啓は口の端を上げた。
「これは相手を見ずに、自分を過信した俺のミスです。できると勝手に思ってしまった。でも、それは……來良さんがいたからでした。だから、謝らないで――」
「啓」
來良は、啓の肩を抱きしめた。啓の肩に來良の額が触れた。
「……生きていて、本当に、よかった……」
縋り付くような、震える声。
初めて聞いたその声音に、啓は固まった。
「お前が刺される前に見つけてやればよかったって、何度も後悔した。病院に担ぎ込んだ時には、すでにかなりの出血量だった。薬の影響もあって、医者が一時は危ないと言うくらいで――本当に、気が気じゃなかった」
抱きしめた腕に、力がこもる。啓と來良の距離が縮まっていく。
「死んだら帰れない。そう言いのけたお前だから、こんな無茶するとは思ってなかったんだ。……ラヂオ塔の時もそうだったが、俺は……お前を戦場に送り込んでいながら、お前を守ることを忘れていたんだ。だから――今更遅いかもしれんが、これからはお前を守らせてくれ」
懇願するような物言いに、啓は小さく「はい……」と答えた。
静寂が包む部屋で、啓は自分の心臓の音だけを聞いていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
強引に退院許可をもらった啓は、來良と共にいつもの部屋へと戻った。
「……啓。大事な話がある」
その言葉で、二人は机越しに向き合った。
「明日の任務は、前にも話した通り軍への潜入だ。俺は勝手を知っているが、お前は知らないし、病み上がりだろう。だからお前には、ここで待機してもらいたいと思ってる」
啓は前から、明日の夜に任務があると聞かされていた。
その任務は――軍人や士官学校生が乗る列車の、脱線計画の阻止。
――それを聞いていたために、蘭子の誘いも断ったのだった。
「この怪我では、連れて行けないってことですか?」
「……まぁ、そうだな」
少しの含みを持たせながら、來良は頷いた。
「來良さん」
啓の声は、わずかに怒りが滲んでいた。
それに驚いたのか、來良は手に持っていた新品のタバコを取り落とした。
「俺が足手まといになる、そう判断しての命令なら、俺は従ってここで待ちます。自分を過信して來良さんの足を引っ張るなんてこと、したくないですから。……でももし、俺を心配してそう言っているなら、俺は無理やりにでも付いて行きます」
啓はゆっくりと立ち上がった。
「俺は早く帰って、兄を見返したい。だから俺は俺の意志で、任務に参加します」
啓は今回の怪我で、改めて覚悟を決めた。
兄を見返す。
そのためにはどんなに傷ついても、どんなに手を汚してもいい。
ただ生きて、來良と帰ろう、と。
一緒に平和な世界に帰れれば、もっとまっすぐな恋愛もできる……かもしれない、と。
啓はホルスターに入れていた、來良が買ってくれた
「これは『守ってやる』って思いが込められているんでしょう? 店員さんから教えてもらいました」
さらに畳みかけるように、啓は身を乗り出した。
「それに、病院で言ってたじゃないですか。來良さんは何があっても、俺を守ってくれるって。――男に二言はないんでしょう?」
すると來良は、吹き出して笑った。
「っはは、そうだな。怖気づいた俺が悪かった――俺の負けだ。お前も連れて行く。ただし無理は厳禁だからな」
「分かりました」
そう言って、二人は再び計画を練り直すのだった――。
◇ ◇ ◇
闇に包まれた森の中。
わずかな月明かりが、二人の男のシルエットを浮かび上がらせていた。
片方の男が、数枚の写真を手渡す。
もう一人の背の高い男はそれを静かに受け取った。
「期待、してるよ?」
「……分かった」
強い風が吹く。
背の高い男が目を開けると、そこには誰の姿もなかった。
「自分、抜け駆けはあかんって言うたやろ……」
背の高い男はそう言って、渡された写真を握りつぶした。
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