第3章 冤罪編
第10話:學校【壱】
「学校、行ってみないか」
少年に付けられた傷が癒えた頃。
休日だと言う
朝食をとっていると、冒頭の言葉を突然切り出したのだった。
「随分唐突ですね」
「お前のその体、元々戸籍がなかったお陰で上手くちょろまかせそうでな」
「戸籍偽装ってことですか……? 大胆ですね」
「ま、この時代の軍人には色々コネがあんだよ」
來良は鞄から書類を取り出す。
そこには大きく『転入届』と書かれていた。
「首席のお前にお
――早く、帰りたい。
――帰って、兄を見返したい。
そんな気持ちに急かされ、啓は身を乗り出した。
「行った方が、早く帰れますか」
「ブレないな」
「……そのために、
來良はタバコを取り出し、火をつけながら頭を掻いた。
「それもそうか。結論から言うと、早く帰れる」
二人の間に煙が散っていく。
――いつ見ても、來良のタバコを吸う姿は様になっている。
「俺のこのナリじゃ、さすがに学生には溶け込めねぇだろ? だからこの立場じゃ気づけていない、潰し損ねた
啓がしっかり頷くと、來良は笑いながら煙を吐いた。
「あとは――交流だな」
「交流?」
「せっかく飛ばされて来たんだ。苦しむのもいいが、どうせならこっちの学校生活を楽しんでこい。向こうじゃ勉強ばっかりだったんじゃねぇか?」
耳に痛い言葉。
啓が眉をひそめると、來良は笑い声を上げた。
「ま、合わなきゃ辞めりゃいいだけさ。この時代は、進学なんざ金持ち様の特権だ。家計が急変して辞めるなんてよくあるしな」
改めて、書類が差し出された。
啓はおずおずとそれを受け取った。
さらりと目を通すと、そこには「身分:
アナログ社会だと、ここまで偽造できるのか。
啓は驚きながらも、來良から言われた言葉を思い出していた。
「――でも來良さん、前に『俺には諜報の適性はない』って言ってませんでしたっけ?」
「出会った時か。よく覚えてんな」
再び笑みを深めながら、來良は白い煙を吐き出した。
來良の席に置かれたコーヒーの煙と混ざり、天へと昇っていく。
「確かに諜報の適性はないが、お前はもともと学生だったんだ。何も偽るもんはねぇだろ」
「……そう、ですね」
來良にはまだ、バレていない。
――啓が性別を偽っている、と。
そう確信が持てる言葉に、啓は曖昧に頷くのだった。
「まぁとにかく、自由に生きて、好きに友達でも作ればいいんじゃねぇか」
自由。
友達。
元の世界では縁のなかったその言葉に、啓の肩が跳ねた。
「……行きます」
「そうかそうか。じゃあ手続きしておくから、その空欄埋めとけよ」
來良は吸いかけのタバコを灰皿に押し付け、立ち上がった。
「どこか向かわれるんです?」
「お前の制服の調達さ」
◇ ◇ ◇
一週間後。
啓が袖を通したのは、スーツではなかった。
真っ黒な学ランに、ポンチョのような長いマント。
頭には学帽、右手には黒い革のカバン。
コスプレかと思うほど、いかにも「大正時代の学生」な恰好だった。
來良が調達してきた制服はお下がりのようで、啓にとってはかなり大きかった。
裾上げなどもしてもらったが、袖は「萌え袖」と言われるような長さになってしまっていた。
來良にからかわれて、啓が唇を尖らせたのは記憶に新しい。
そして制服以外にも、いつもと違うものがあった。
――それは顔の半分を覆う、ガラスレンズの丸メガネ。
いわゆる伊達メガネだ。
黒くて細いフレームが、大きなガラスレンズをなんとか支えていた。
これは來良から「変装だと思って、掛けとけ」とにごされて渡されたものだった。
よく分からないが、貰ったものはつけた方がいいだろう。
そう思った啓は、律儀に身に着けて登校したのだった。
重たいレンズの向こうには、緑がかった灰色と言うのだろうか、不思議な色の校舎がそびえ立っていた。
木造なのだろう、外壁も木材が組み合わされて横縞模様を描いている。
一周して令和っぽさもあるが、正方形の窓や設置された鐘が、確かな時代を感じさせた。
二階建ての校舎の上には、瓦でできた屋根。
結構な傾斜があるその上に、人影があった。
目を凝らすと、学ランの前を開け、マントを毛布代わりにした少年が寝そべっていた。
――寝返りを打ったら落ちそうだ。
啓はわずかに心配しながら、鐘の音が響く校舎の中に、足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「転校生、入ってきなさい」
啓は木製のドアを、ゆっくりと開けた。
クラスメイトたちの興味津々な目を向けられながら、挨拶をした。
「
啓はぎこちない笑みを浮かべながら、一礼をした。
この
「長男感がある方が、転入生でも浮かないだろ」とのことらしい。
しかし先ほどから、啓は気になっているものがあった。
それは、隣に立つ担任からただよう匂い。
ぴしりとセットされた七三の髪型からして、ポマードと呼ばれるものの香りだろうか。
――これは生徒に嫌われるだろうな。
その思いを隠しながら、啓は息を止めつつ担任の話を聞いていた。
啓の鼻が曲がりそうになった頃、担任は席を指示した。
それは、窓側の一番後ろ。
特等席だと思って移動したが、教室は元の世界のものよりも狭く、後ろの棚が迫る狭さ。
むさくるしい空間に、啓はげんなりした。
隣の席も近いが、こちらはちょうど欠席のようだった。
これだけはラッキーだなと、啓は人のいない机を眺めた。
少しして、バサリと大きな音が鳴る。
教室の前方で、ポマードで髪を光らせた担任が、大量の紙束を取り出していた。
「中間考査を返す。成績順だ」
自分には関係のないもの。
啓はそう判断すると、ぼうっと窓から外を眺める。どこか遠くで担任の声を聞いていた。
「満点。……
校舎中に響くような怒鳴り声が、教室を震わせる。
すると啓の視界の端。
遠くの屋根の上から、人影が走ってくる。
器用に壁や配管を掴んで、教室に入ってきた。
――啓の真横にある窓から。
窓枠に掛けられた足。それは大きく、啓の倍近くはあるかと思うほど。
さらに素足に高下駄。
この時代では不良の象徴とも言われる、「バンカラ」スタイルだろう。
啓が視線を上げると、羽織られた学ランとマントが、ひらりと風になびいていた。
それらは痛んでおり、光を透かしている。
斜めに分けられた前髪と、ポニーテールのように高く結ばれた後ろ髪が、遅れてなびいた。
そして切れ長の目から覗く緑色の瞳が、担任を捉えた。
「おはよぉございますぅ。オレが一位やんな? やったぁ!」
「いい加減にしろ!
「そんなカリカリ怒らんでくださいよぉ。髪薄ぅなりますよ、ポマーせんせ」
担任が、ぐしゃりとテスト用紙をつぶした。
少年は、空いていた隣の席にどかりと座った。
啓がその様子をぼんやり見ていると、緑色の瞳が啓の瞳を捉える。
切れ長の目がさらに細められた。
「ん? 自分、見ぃひん顔やな。あー、転入生ってやっちゃな? 珍し」
「……
「ほんなら、ケー坊やなケー坊! オレは
「……うん、よろしく」
一気に黑居のペースに巻き込まれる。
啓は「黑居なのにシロなんだ」の言葉を飲み込み、静かに目を反らした。
それから、続々とクラスメイトの名前が呼ばれていく。
啓は興味なさげにそれを聞き流していたが、横の白黒男は「バンバン、めっちゃ点上がっとるやん」「レイやん、今回の物理難しかったのによぉそんなに取れたなぁ」「リンダ、そんなに点下がってどぉしてん!」とそれぞれに褒めたり心配したりしている。
何故かそれが、やたらと啓の耳にこびり付いた。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴って、ポマーと呼ばれた教師が去る。
間髪入れずに、教室は一気に騒がしくなった。
啓の机を取り囲む、人、人、人。
そのすべてが学ランに身を包んでいた。
そういえばここは男子校だったなと、啓はひっそりとため息をついた。
「どこから来たの?」
「えっと……生まれはこの近く。しばらく
「編入してくるんだし、頭良さそう!」
「……いや、そこまででは……」
先日、來良に作ってもらった設定を思い出し、啓はなんとか答えを
すると、目の前の同級生が笑顔で黑居の方を向いた。
「万年一位の、シロさんのライバルになれるんじゃない?」
すると黑居はゆっくりと席から立ち上がった。
改めて見ても、その体躯はすらりと長い。
この時代には珍しく、一八〇センチは超えていそうだ。
思わず啓が彼を見上げると、黑居も啓を見つめていた。
目が合った瞬間、黑居の瞳が
「ええな、ライバル! ライバルってなんかええ響きよな。ケー坊、オレとライバルになってくれ! 代わりに放課後、学校案内したるで!」
「ごっ、ごめんなさい!」
黑居は目を見開く。
そのまま動揺で足元をふらつかせ、椅子に足をぶつける。
椅子が勢いよく倒れ、大きな音が響いた。
「シロさんが振られた!」
「嘘だろ!?」
「ガツガツ行き過ぎなんだよ」
やいのやいのと、クラスメイトたちが
啓には放課後、何にも代えがたい大事な用があるのだ。
それは――
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