第6話:覺悟【弐】
啓は無意識に、周りをきょろきょろと見渡した。
誰もいないのを確認し、ほっと息をつく。
少しの背徳感とともに、改めてページをゆっくりとめくった。
そこには今まで潰してきた、
初めこそ、「猫を見つけた」「万引き犯を捕まえた」「薬を渡して長生きさせた」などの小さなものが多いが、ページをめくるごとにその規模は大きくなっていく。
役人の娘の誘拐の解決。
駅の爆破テロの防止。
重要人物の暗殺計画の防止。
これは実行中に肩に銃弾が当たって負傷したが、それでも諦めずに戦った、と――。
「……俺にこんなこと、できるのかな」
無意識に、口から零れた言葉。
か細いそれは、部屋の静寂に溶けていく。
昨日、銃口を向けられて咄嗟に体が固まった。
改めて、自分が平和な時代に生きてきたと痛感する。
自分が生きていた世界の小ささも。
兄を見返すどころか、この世界で死んでしまったら――。
数時間後の任務への不安が、啓の胸の中をぐるぐると渦巻いた。
すると遠くから、ヒールの音が聞こえてきた。
啓は頭を振って思考を止め、読みかけの日記を本棚へと押し込んだ。用意していた別の本を開く。
その数秒後、ゆっくりと扉が開いた。
大きい包みを二つ持った來良が入ってくる。
「お、ちゃんと飯も食ってるな」
「おかえりなさい」
「ただいま。今日の晩飯は豪華だぜ」
來良が片方の包みを開くと、タバコの匂いをかき消すように、惣菜のような匂いが啓の鼻孔をくすぐった。
「大正時代っぽいのがいいだろって思ってな。オムライスだ」
現れた料理に、思わず「わぁ」と啓の口から感嘆が漏れる。
美しく照り返す黄色の卵。
破れなどもなく、綺麗に成型されている。
家庭的というよりも、高級な洋食店の物を彷彿とさせた。
はち切れそうな張りのある中央付近には、具入りのトマトソースがかかっている。
ソースの赤色と卵の黄色のコントラストが眩しい。
ビジュアルと香りに、思わず腹が鳴った。
「ほら、早く食べねぇと冷めちまうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
啓は渡された先割れフォークを、オムライスの端に突き立てた。
割れた卵の間からはバターライスが覗き、白い湯気がふわりと立ち昇る。
断面へなだれ込むように、上に掛けられたトマトソースがゆるりと流れていく。
運ぶときにこぼれないようにだろうか、その粘度は高くもったりとしていた。
切り分けたオムライスとたっぷりのソースを掬い、口に運ぶ。
芳醇なバターの香りの後に、トマトの酸味と甘みが口いっぱいに広がった。
さらに、ソースに入っていたらしいキノコの風味も追ってやってくる。
噛み締めると食感がアクセントになり、食べ応えがある。
「……おいしいです!」
「そりゃあよかった」
それから啓は、無心でオムライスを切り分けて口に運んでいた。
來良はそれをずっと見つめている。
途中で啓はいたたまれなくなって、目をそらしながら一度水を飲んだ。
「あの……すみません。ずっと見られてると、気になって……」
「悪い悪い。お前、食べ方が綺麗だなって思ってな。マナーだけじゃなくて、見てて気持ちいいタイプの食べっぷりだ」
「あ、ありがとうございます……? そういえば來良さんはもう夕飯とられたんですか?」
「ああ。軍人は基本、食堂で食べる決まりだからな」
「じゃあこれはテイクアウトで……?」
「いや、売店の材料使って調理場で作ったんだよ。この時代にゃ夜にやってるテイクアウトやら、デリバリーみたいな便利なもんはねぇからな」
啓は目を大きく見開く。
スプーンを落としそうになるが、なんとか耐えた。
「さすがに揚げ物は処理が面倒だからやんねぇけどな。こんだけ喜んでくれるんなら、今度はホットケーキでも作ってやるよ」
「なんでもできる人……」
「ま、お前よりは長く生きてるからな。この部屋にもキッチンがあれば、啓と一緒に料理もできたんだがな。さすがに誰でも出入りできる共同調理場に、お前を呼ぶわけにはいけないだろ」
そう言いながら、來良はもう一つの包みを開き始めた。
中からは、高級そうな黒スーツと、黒い学帽のようなものが出てきた。
「ごちそうさまでした。……それ、なんですか?」
「啓の任務用のセットだよ。さすがの俺も、ボロボロの服の少年を連れて歩けるほどの度胸はねぇからな」
――しばらくして。
渡された服を着て全身鏡に映る啓。
その姿は大学の入学式のような、いかにも初めてスーツを着た学生だった。
「ハハ、完全に着られてるな」
「……來良さんが選んだんじゃないですか!」
「怒るなよ。初々しくて微笑ましいだけさ」
そう言って、來良は帽子を渡してきた。
啓は帽子を受け取ろうと、手を伸ばす。
しかし帽子の中には、ひっそりと銃が収まったホルスターが入っていた。
啓はしばらく
「……俺に、できるんでしょうか」
「どうした、ずいぶんと弱気だな。銃が怖くなったか?」
「正直……銃も刀も、武器は全部怖いです。突きつけられるのも自分が扱うのも、さすがに一日じゃ覚悟できません……」
一度開いた口から、言葉が零れ落ちていく。
「あと、來良さんの足手まといになるのも怖い……少なくとも足は遅いですし。でも何より――死んで帰れないのが怖いんです」
「ハハハ! お前は俺に全部の仕事をさせて、無傷のまま帰りたいって言うのか?」
細められた來良の目。鋭い視線が啓を捉えた。
啓はあいまいに口の端を上げた。
「……そうなっちゃいますよね」
「どう転んでも、そうなる」
來良は、啓に渡そうとしていたホルスターから銃を取り出す。
現代ではあまり見ないような、先の細い銃だった。
來良はそれを握ると――啓の方に向けた。
「オークションの関係者から逃げる前、言ったろ? 貸しは高くつくって」
「……はい。覚えています」
「約束を
安っぽい脅し。
啓は眉をひそめながら、小さく頷いた。
來良はため息をつきながら銃を下ろした。
「この任務はな、何もお前だけのためじゃない。今この
「見返せない、人――」
「最下位階級の
來良は銃をもてあそんだあと、窓の外へ銃口を向けた。
「俺はこの
一度言葉を切り、來良は大きく息を吸った。
「――この
「見返せる権利、ですか――」
「お前が兄を超せたように、いつか
微笑みを浮かべた來良が、啓の方へ振り返った。
「なぁ、啓。お前もそうやって、希望を持って生きてきたんだろ」
「それは……」と言って、啓は口ごもった。重たい静寂が部屋を包む。
「どうだ、啓。これを聞いてもお前は逃げるか? お前みたいな人間を、
來良は改めてホルスターに銃を入れ直し、帽子の中に入れて啓に差し出した。
啓はぐっとこぶしを握る。
そして、重たい帽子を受け取った。
ホルスターをきつく腰に巻き、帽子を深くかぶる。
陰になった目元には、決意の光が宿っていた。
「――ありがとうございます。おかげで目が覚めました」
「やっと起きたか、
「おはようございます、來良さん」
「じゃあ、行くか」
そう言って、二人は薄暗い廊下へ踏み出したのだった。
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