第2話:目覺【弐】

 転がるけいを、男が見下ろしていた。


 男は、真っ黒な詰襟つめえりに身を包んでいる。

 目に付くのは、肩に付いた金色の装飾や、胸に付いた複数のバッジ。

 それが「軍服」だと理解するのに、時間はかからなかった。


 さらに軍服に包まれた体は、筋骨隆々。

 この男が「軍人」であることを、はっきりと物語っていた。


 ――まずい。

 ――逃げられない。


 見た目だけで、啓は体がすくむのを感じた。

 なんとか上体を起こしながら、男の顔を観察する。


 彫りが深く、鼻筋が通った輪郭。

 よく見なくても整っているのが伝わる顔立ちだった。


 髪色は黒だが、軽く流された前髪に銀のメッシュが入っている。

 後ろ髪もウルフと呼ばれるような、男性にしては襟足の長い髪型。

 軍人らしからぬがらの悪さだ。


 そしてやや大きめの口には、白い紙タバコがくわえられていた。


 風でなびいた前髪の隙間から、朽葉色の瞳が覗く。

 その冷たい視線に射抜かれ、啓はついに固まってしまった。


「ああ、例のオークションの商品か。見逃してやるからさっさと戻れ。戻ればおとがめだって軽くなるさ」


 ぐっと拳を握ると、啓はよろよろと立ち上がった。意を決して、口を開く。


「……俺は戻りません」


 一呼吸置き、軍人は白い煙を吐きながらくつくつと笑いだした。

 タバコの匂いが、ふわりと鼻を掠める。


「お前、その見た目からしてひのえだろ。最下位階級の割にずいぶん強情な奴だな。捕まったらどんな目に遭うか――」

「どこかで捕まって、死刑になっても構いません」


 小さく「もう、一回死んだんだから……」と呟くと、啓は軍人を無視するように、東の森を目指して歩き出した。


「そっちは、敵の根城ねじろだぜ?」


 その言葉を証明するように、啓の前に見張り番のような男が飛び出してきた。

 向けられた銃口に、啓の体が再び固まる。


「忠告くらい、聞く耳を持つといい」


 その声はやや遠い。

 いつの間にか、軍人は見張り番の後ろに立っていた。そのまま軽々と背負い投げをして、見張り番の動きを止めた。


 軍人は自分のベルトを引き抜くと、見張り番の両手を縛る。そのあと、落ちていた銃を長い脚で蹴り飛ばした。


「最下位階級のひのえなら特に、耳を傾けて生きていく方が堅実なはずだぜ」


 最下位階級。

 その言葉で、啓の心に怒りの炎が再び燃え上がった。

 無意識に噛みしめた歯がぎりりと鳴る。


 この軍人にも、見下される・・・・・のか――。


「助けていただき、ありがとうございました。でも――お説教は結構です」

「説教じゃない、これも忠告さ」


 軍人は携帯灰皿のようなものを取り出し、吸い殻をゆっくりと中へ押し込んだ。


「どんなに凄いと思った人間にだって、どんなに嫌な人間にだって、何かしら自分より優れたもんがある。正しくそこに向き合え。――無視すれば、いつか取り返しのつかないことになる」


 軍人はおもむろに、胸ポケットから小さな箱を取り出した。

 角をトントンと叩くと、白い紙タバコが二本飛び出す。

 一本は軍人の口に、もう一本は啓に差し出された。


「話し相手になってくれるんなら、少し逃亡金を渡してやってもいい。時間はこれが燃えるまで。どうだ?」

「いえ、吸えません」


 啓が小さく呟いたその言葉に、軍人は目を瞬かせた。

 夜の静寂に、くしゃり、とタバコの箱がつぶれる音が響いた。


「へぇ。お前今、タバコは吸えません・・・・・って言ったな?」


 軍人は啓の肩に腕を回す。

 断るのがよほど琴線に触れたのだろうか。

 啓は、どうしようと狼狽うろたえる。


「言った、よな?」


 声のトーンはどんどんと低くなる。尋問されているかのような声音。

 啓は震えながら、何度も首を縦に振った。


この時代・・・・の人間はなぁ、タバコはのめません・・・・・って言うんだよ」


 軍人の顔が、啓の耳元へ近づく。

 タバコの匂いが濃くなり、耳に温かい風がかかる。


「少年。お前はこの時代の人間じゃない。平成……いや、令和・・の人間だな?」


 平成、令和。その単語を知っていて、正しく使っている――つまり、この軍人もそうなのだろうか。

 啓が無言で考えを巡らせていると、軍人の腕が離れていった。


「考えてることが筒抜けの表情、諜報の適性はなし、っと……そうだよ、俺も令和の人間だ」


 啓は目を見開きながら、恐る恐る口を開――こうとした。

 二人の声をかき消すように、上階から扉を開く音や複数の足音が響いてくる。遅れて「逃げたぞ!」「探せ!」という声も聞こえてきた。


「っはは、ついにバレたらしいぞ。どうする?」


 軍人は再びタバコの箱を取り出すと、くわえていたタバコを中へ入れ戻した。


「元の時代に帰りたいか」

「……でも俺、死んでこの世界に……」

「実は、死んでないとしたら?」


 「え」と呟いた啓へ、軍人が改めて向き直る。

 月明かりで、軍服の胸元に付けられた複数のバッジがきらりと光った。


「今の立場はそれなりに権限がある。ここを切り抜けて、元の世界へ帰る手助けをしてやってもいい」


 軍人は、啓に手を差し出した。


「俺と共犯にならないか?」

「共犯、ですか……?」

「帰るために、一緒に罪を犯すってことだ」


 ――元の世界へ帰れる。

 ――つまり、それは。

 ――兄を見返せる、ということ。


 そう気づいた啓は、突き動かされるように軍人の手を取った。

 

「……どんな罪を背負っても構いません。もし帰れるなら……絶対に帰りたい」

「ハハ、簡単に決めすぎだ。でも、そうだな。こんな歳のガキを見捨てるのは、寝覚めが悪い」


 子供扱いする物言い。むっとした啓は口角を下げた。

 それを見た軍人は、反対に口角を上げた。


 浮かぶのは、不敵な笑み。


男に・・二言はねぇよなぁ? ――ちょうどぶっ潰したかったんだよ。特異点イレギュラーをな」


 軍人は、ホルスターから銃を抜く。

 銃口を天に掲げ、鬼ごっこのスタートを知らせる空砲を鳴らした。

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