第三部3

「イアン、私にあなたを救えますか?」


 イアンは瞠目した。


 オリガの言葉を脳内で反芻してみる。


 私にあなたを救えますか――まるで救いの手を差し伸べられたかのようだ。

 いや、オリガは本当に救いの手を差し伸べようとしているのかもしれない。

 そうでなければこんなことを言うはずがない。


 では、何故?

 オリガに私を救う義理なんてありはしない。

 シラクサで出会ってティータイムを共にし、パレルモのホテルで再会した偶然の関係だ。

 この一言ではいまいちオリガの意図が把握できない。


「君は唯一私を救える人間かもしれない。人間をここまで魅力的に思えたのは君が初めてだから」


「アルビノを気持ち悪いとは思いませんか?」


「微塵も。君は何も劣っていない。むしろ、アルビノのおかげで優れた美貌を有している。劣っているのは私の方だ。質問を返そう。かたわの私を気持ち悪いとは思わないか?」


 オリガは瞳を潤ませて何度も首を左右に振った。


「思いません。あなたの左目は私に見えないものを見ています。あなたの右脚は私よりもずっと先を歩んでいます」


「それなら私に救いはいらないのではないかな?」


「いいえ。あなたには支えが必要です。昼の私はかたわ――あなたと同じです。かたわとかたわが支え合えばまた走ることができます」


 エメラルドのごとき瞳に一筋の希望の光が差し込む。


「また戦場に戻れるか?」


「いいえ。あなたはかわいそうな人間ですね」


「私がかわいそうな人間?」


「そうです。あなたは精神も肉体も戦争に穢されてしまっています。全てを失ったというのに、なんのために戦うのです?」


「わからない。考え続けてきたが、答えは出なかった。もしかしたら、私は奪われたものを取り返そうとしているのかもしれない」


「戦争に奪われたものは二度と戻ってきません。戦い続けても得られるものはありません」


「だが、私は戦うことで自己満足を得ていた。戦いをやめてからは虚無感が私を支配した。退役して一年、私は地獄を味わっている。こんな人生にはもううんざりだ。君にもこの苦痛が理解できるはずだ」


「はい。だからこそあなたを救いたいのです」


 オリガの真意が垣間見えてきて、イアンはしばし沈思黙考した。


 救ってくれるのなら是非とも救ってほしい。

 オリガと支え合いながら生きる人生も悪くはない。

 いや、それどころか最高の人生になり得る。

 戦争を忘れられるものならそうしよう。


 だが、それができないから私はもがき苦しんでいる。

 差し伸べられた白い手を掴めば何かが変わるかもしれない。


 いずれにせよ、私はもう戦場には戻れない。

 それはわかっている。

 得るものはあっても、失うものは何一つとしてない。


 懐から煙草の箱を取り出す。

 まるで重みがない。

 中を覗き込むが、一本も残っていない。


 イアンは嘆息し、煙草の箱を握り潰して灰皿に突っ込んだ。


「わかった。私の人生、君に捧げよう。これからは君のために生きよう。愛想を尽かされても構わない。見捨てられても構わない。一時でも君といられるのなら私は幸せだ」


「見捨てたりしませんわ。きっと私が戦争の苦痛を癒やしてみせましょう」


 オリガは本気だった。

 つい最近まで見ず知らずだった退役軍人のために人生を捧げようとしていた。

 これは酔っているせいもあった。


 イアンはくだらないジョークを延々と耳元でささやかれているような気分だった。

 それでいて、不思議と嫌悪感はなかった。

 オリガが嘘をついているようには思えなかった。


 二人は微笑み合い、手と手を携えた。


「ああ、そうだ。今度友人と食事の約束をしたのだが、君も来てくれないか?」


「私が行ったら邪魔になるのではありませんか?」


「いや、むしろ助かる。友人の恋人も同席するのでな、一対二では少々やりづらい。それに、今日から君はれっきとした友人だ。是非とも君を紹介させてくれ」


「わかりましたわ」


「レストランの予約が取れ次第連絡すると言っていた。日時がわかったら君にも連絡するよ」


「はい。楽しみにしております」


 イアンは一安心した。

 仮の伴侶を手に入れたかのようで、内心舞い上がっていた。


 今宵の酒はやけに進んだ。

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