第三部2

 イアンは二、三口でキャロルを飲み干し、オリガはちびちびと舐めるようにカルヴァドスを飲んだ。

 上品な飲み方ではあったが、酒豪の彼からしたらじれったかった。


「酒には弱いのか?」


「ええ、まあ。カクテル一杯でも酔いが回ってしまいます」


「酔ったらどうなる?」


「ふふふっ、試してみますか?」


「そうしよう。マスター、キャロルとリトル・プリンセスを」


 イアンがオリガのために注文したリトル・プリンセスは、マンハッタンのレシピ――ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット、アンゴスチュラ・ビターズのライ・ウイスキーをラム酒で代用したカクテルだ。

 彼はマンハッタン系のカクテルを一通り飲んでいるが、その中でもキャロルとリトル・プリンセスを気に入っている。


 だが、退役した日の夜、シカゴのバーでリトル・プリンセスを死んだジャンに捧げて乾杯したため、それ以来飲んでいない。

 何故ジャンにリトル・プリンセスを捧げたのかはよく覚えていない。

 もしかしたら、彼がリトル・プリンセスを飲んでいたのが思い出されたからなのかもしれない。


 言っていたようにカクテル一杯で酔いが回ったのか、オリガの頬にはほんのわずかに朱が差していた。

 純白に浮かび上がった朱色は妖艶さを際立たせており、イアンは思わず見惚れてしまった。


「夜の君は一際美しい。無機質さが失せて生物的になった。君にはリトル・プリンセスの名が相応しい」


 オリガは恥じらいに白百合のようなまつ毛を伏せた。


「可愛らしい名前ですけれど、私には似合いませんわ。もう大人になってしまいましたもの」


「女は美しければいつまでも少女さ」


「幼く見えます?」


「ふむ、そうだな……やはり私からしたら君は少女だ。君なら永遠に少女でいられる気がする。どんな美もいずれは醜に成り果てるが、君はきっと例外だ」


「つまり、醜くなる前に死ぬ、ということかしら?」


「佳人薄命と言うしな。美人はその美貌ゆえに数奇な運命に翻弄されて早死にする。おっと、本気にするな。これは迷信だ。私はこの手の話を全く信じない人間だ。よく罰当たりな人間だと言われるくらいにね」


 オリガは佳人薄命という言葉に引っかかっていた。


 オリガ自身、この言葉を体現しているようなものだった。

 数奇な運命に翻弄された結果、モスクワからシチリア島に移住した。


 もしこの言葉が本当なら早死にしてしまう――そう思うと憂鬱な気持ちになった。

 生きる意味を失ってなお自殺できなかったのだ、彼女は殊の外死を畏怖していた。


 三つ目のマラスキーノ・チェリーの種を飲み込んで果肉を味わい、イアンは横目でオリガを見やった。


「怖がらせてしまったのならすまない。だが、君までこんな迷信を信じてどうする? 君は美人に違いないが、薄命かどうかはわからない。人間の死なんてわからないものさ。死は突然に訪れる。今日を生きていても、明日は死ぬかもしれない」


「そう、ですわね。死は怖いけれど、人間はいつか死んでしまう。生物の頂点に君臨していても、所詮は人間も脆弱な生き物に過ぎない。今日を生きられたらそれでよしとしましょう。たとえ明日は死ぬのだとしても」


「そうさ。今日を生きられたら明日も生きられるかもしれない。たまに夢見ることがある。明日になれば左目が開いて右脚が生えてくるのではないか、とね」


 リトル・プリンセスを小さくすすり、オリガは薄紫色の瞳でイアンの瞳の奥をじっと見据えた。


「もし本当に左目が開いて右脚が生えてきたらどうしますか?」


「戦場に戻る」


 イアンは即答した。


「戦場こそが私の家だ。ロサンゼルスに私の家はない。願わくばかつてのように戦場を自由に駆け回りたい。戦場にいる時は本当の私でいられた。ご覧、この私を。ひどい有り様だ。ただの飲んだくれだ。私は全てを失った人間を体現している」


「人間を殺したいですか?」


「殺したい。敵を――ロシア人を殺したい。今日ロシア人を殺せるのなら、明日は死んでも構わない」


「やはりロシア人を恨んでいらっしゃるのですね」


「いや、ロシア人にはなんのわだかまりも抱いていない。敵がイタリア人ならイタリア人を殺す。たまたま敵がロシア人だったからロシア人を殺したいのだ。それに、戦争に勝とうが負けようが私にとってはどうでもいいことだ。ロシアが勝ってもロシア人は嫌いになれない。君がロシア人だから」


 オリガは複雑な表情をした。

 喜びと悲しみを織り交ぜて顔面に貼りつけたかのようだった。


 戦争の話題はもうたくさんだった。

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