第二部

第二部1

 春になり、うららかな日和が続くようになった。


 春の安穏とした気候とは対照的に、イアンは血眼になっていた。


 シチリア島に滞在する期間は未定だったが、せいぜい一週間くらいだとたかをくくっていた。

 それがどうだろう。

 季節が変わってもイアンはアメリカに帰ろうとしなかった。


 イアンがアメリカに帰ろうとしなかったのには、とある理由があった。

 無論、悪夢が眠っているアメリカに嫌気が差したということもあったが、シチリア島には彼を執着させるもっと大きな魅力があった。


 イアンがシチリア島に滞在することにした理由――それは、オリガがいるからだ。


 女とは無縁だったイアンが一目惚れしたオリガ。

 彼女との再会を心底願い、シチリア島という足枷と彼女という鎖の虜になってしまった。


 シラクサを彷徨っていればすぐにまた会えると思っていた。

 それが甘かった。

 彼女が行きつけと言っていたカフェに何度足を運べど絶世の美女に会えることはなかった。


 眠る間も惜しんで一日中シラクサを歩き回り、足が棒のようになっても目を見開いてひたすらオリガを探した。

 その結果、言葉通り血眼になった。


 こんなことならシチリア島に旅行するべきではなかった。

 オリガと出会うべきではなかった。


 だが、オリガとの出会いは悪いことばかりではなかった。

 アメリカでは毎日のように見ていた悪夢を見なくなったのだ。


 イアンが見ていたのは戦争の悪夢だ。

 毎日のように同じ悪夢にうなされていた。


 夢の中でイアンは家族と食卓を囲んでいる。

 賑やかで団欒とした雰囲気に、それが夢であるという感覚が麻痺していき、家族と他愛のない会話を交わす。


 しばらくすると、二人の兄が席を外す。

 どこに行ったのかはわからない。

 それでも食事は続く。


 永遠に思われた時間も束の間、凄まじい爆音と共に重なり合った足音が家に侵入する。

 武装したロシア人がダイニングに現れる。

 刹那、銃声が鳴ったかと思うと視界が暗転する。


 瞼を開くと、ダイニングが血の海になっている。

 家族はその海にずぶずぶと沈んでいき、彼は必死に手を伸ばす。


 振り向くと、ロシア人がさも愉快そうに口角を上げている。

 ロシア人は彼を殺さない。

 彼は激怒し、銃を拾ってロシア人を撃ち殺す。

 血の海が広がり、彼もその中に沈んでいく。


 この悪夢の代わりに見るようになったのは、オリガの夢だ。


 イアンは通りを歩いている。

 通りですれ違う人間は皆何かしらで顔面を覆い隠しており、彼はそれを一つ一つ剥がしていく。

 どれも不気味なのっぺらぼうで、オリガは見つからない。


 しばらく先の見えない通りを進んでいると、白髪を優雅に揺らして歩いている女の後ろ姿を見つける。

 彼はそれがオリガであると確信し、重い身体を引きずって駆け出す。


 夢の中では左目も右脚も失っていない。

 両目でオリガを見ることができるし、両足で走ることもできる。

 夢の中では自由に生きられる。

 が、白い背中に追いついたと思いきや、肩を掴み損ねて右脚から崩れ落ちる。


「何故だ……何故会えない……オリガ、君はどこにいる……」


 意識が覚醒すると、譫言のようにそう呟く。


 ベッドから起き上がり、すぐに着替えてホテルを出る。

 朝食も取らずに通りから路地裏の隅まで調べる。


 昼食の代わりに例のカフェでドッピオのエスプレッソとラスクを注文する。

 エスプレッソは相変わらず美味しいのだが、ラスクは日によって出来が異なる。

 ちょうどいい具合に仕上がっている日もあれば、片面もしくは両面が焦げている日もある。


 夕食はバーで酒を飲みつつナッツをつまむ。

 酔いが回るとホテルに帰り、シャワーを浴びてオリガを思いながら眠る。


 こんな日常には耐えられない。

 精神も肉体もいかれてしまいそうだ。

 もうオリガのことは諦めよう。

 とにもかくにも、シラクサを離れなければならない。


 やはりイアンはアメリカには帰ろうとしなかった。

 オリガを完全に忘れるにはシチリア島からを離れるべきなのだが、心のどこかでは彼女との再会を密かに期待していた。

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