第一部5
「美しい」
「えっ?」
「美しいと言ったんだ。この世のものとは思えない、とはまさにこのことを言うのだな。そうだな、君は……そう、まるで雪の化身だ。ロシアが生み出した石膏像だ」
オリガは面食らっていた。
その表情はあどけなく、年齢の概念を白紙にした。
「ああ、すまない、勘違いしないでくれ。君をものに例えたが、君の美しさは無機質だ。決して悪い意味ではない。わかってくれ」
「え、ええ、わかっていますわ。ただ、そういう風に表現されたのは初めてだったので。私は無機質でしょうか?」
「顔面を覆い隠していたらなおさら無機質だ。君の美貌そのものも無機質だ。至高の美貌というものは無機質なのだな」
「無機質とはうまく言ったものですね。美貌という言葉は聞き飽きました。私の素顔を目の当たりにした人間は決まって美しいと言います。私にとって美貌は陳腐なものなのです。ですが、あなたの無機質という言葉は気に入りました」
「それはよかった」
オリガはマフラーを畳んでようやくカプチーノに口をつけた。
窓の隙間から入り込んでくる肌寒い風で、エスプレッソとカプチーノからは湯気が立ち上らなくなっていた。
話している間に少し冷めてしまったのだろう。
焼き立てのラスクはすっかり冷めて、皿に軽くたたきつけたら食べ物らしからぬ音がした。
オリガは両手でラスクの端をつまんでそれは美味しそうに咀嚼した。
まるで大きなビスケットを一口一口噛みしめる子供のように。
ラスクをもう一口齧り、イアンは眉をひそめた。
まずい。
オリガが美味しそうに食べるものだから、表面の小綺麗さに騙されてしまった。
口内がぱさぱさに乾燥し、エスプレッソを一息に飲み干す。
濃縮された苦味が蛞蝓のように舌を這う。
イアンは幼少の時分からストイックだった。
軍人だった二人の兄の影響もあり、大人への憧憬が捻じ曲がったストイックを作り出していた。
当時のイアンには美味しくもなかったコーヒーから始まり、家族に隠れて酒を飲むようになった。
アメリカ陸軍に入ってからは咳き込みながら煙草を吸うようになり、一時はドラッグにも手を染めていた。
どれもまずかったが、一歩でも大人に近付くために続けた。
続けていると免疫がつくもので、いざ大人になってみるとこれらの嗜好品が美味しく感じられるようになった。
そして、生活の必需品となった。
子供と大人の境界線は曖昧なものだ。
イアンは戦場で戦っているうちに大人になっていた。
いつの間にか大人になっていた。
食べかけのラスクを皿の上に戻し、イアンは改めてオリガを見つめた。
「ところで、どうして顔を隠すのかね? アルビノの特異性をもってしても君の美貌は揺るがない。もはや神秘的ですらある。誰もこんなに美しい石膏像を破壊しようとは思わないだろう。私はむしろさらけ出すべきだと思うのだが……アルビノがコンプレックスか?」
オリガは首を横に振ってイアンの言葉を否定した。
「確かに、アルビノはコンプレックスです。生まれてきたことを後悔しました。ですが、私が顔を隠すのには別の理由があるのです」
「シャイだからかな?」
「ふふふっ、違いますわ」
死んだ木の枝のようなほっそりとした指が、乳白色の滑らかな肌をさらりと撫でる。
「色素のない肉体の大敵はご存知?」
イアンははっとした。
「紫外線か。なるほど。これは失礼、どうやら軽率な発言をしてしまったようだ。君の苦労も知らずにアルビノを冗談めかしてしまった」
「いえ、気になさらないでください」
オリガの格好は意図的なものではなかった。
こういう格好をせざるを得なかったのだ。
色素のない肉体に紫外線は害悪だ。
紫外線を浴びると白く美しい皮膚はたちまち赤く日焼けし、皮膚癌のリスクに冒される。
オリガはただ生きることさえも苦労してきた。
たとえ豪奢な生活を保障されたとしても生きていられたかわからない。
彼女が美しく生きていることは奇跡なのだ。
いくつもの戦場を切り抜けてきたイアンと同じように。
オリガが唇についた泡を舌で舐め取る。
それから、瞼の下を人差し指で示した。
「視力も弱いので、コンタクトレンズを入れています。生きるのは大変でしたわ。十年前までは家族が支えてくれていましたけれど、一人だと苦痛でしかありませんでした」
薄紫色の瞳の奥に宿るは微かな希望の光。
言葉とは裏腹にオリガは希望に燃えていた。
絶望はあくまで過去形の話だった。
「死にたいと思ったことはあるか?」
オリガははにかみ、イアンの質問を肯定した。
「はい、何度も。自殺しようとしましたけれど、怖くてできませんでした」
「どうやって死のうとした?」
「銃をこめかみに当てて死のうとしました。ですが、毎日自殺未遂を繰り返して、死の恐怖を実感して、自ら死ぬことの意味を見失いました。生きる意味があるというわけではありませんが、少なくとも私は自ら死ぬのは愚かだと思い直しました」
イアンはこくこくと何度も頷いた。
「奇遇だな、私も全く同じ経験をした。君とはよく気が合う」
「そうですね。こんな時代だからこそ、ですか」
「ああ、君がアルビノでなくともこうなっていたかもしれない」
オリガが最後の一口をきめ細かな泡と共に喉へと流し込み、イアンはトレンチコートの襟を正した。
「今日一日で君とは多くの言葉を交わしたような気がする。言葉なき言葉をね。楽しいティータイムだった」
「私もです。それより、代金は本当によろしいのですか? 私はお礼がしたかったのですが……」
「君と出会えたのだ、私はそれで満足だよ」
「あなたが構わないと言うならいいのですが……改めてお礼を言わせてください。今日はありがとうございました。イアン・グウィン、あなたのことは忘れませんわ」
「私もだ、オリガ・ガヴリーロシュナ・アスラノヴァ」
オリガの長い名前を言ってみせると、彼女は目を丸くして頬を緩めた。
「まあ、覚えてくださったのね」
「記憶力はいい方でね。また会えることを願っている」
「今度お会いできたら何かごちそうさせてくださる?」
「もちろんいいとも」
「よかった。今度お会いしてもミスターはつけませんよ」
「ああ、そうしてくれ。アスタ・ラ・ヴィスタ、オリガ」
「さよなら、イアン」
イアンは椅子から立ち上がったが、オリガはマフラーを丁寧に巻くことに勤しんでいた。
ロシアの石膏像に対する未練を断ち切るように、彼は足早にカフェを後にした。
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