第一部3

 五分ほど歩くと、飾り気のないカフェの看板が見えてきた。

 昼を過ぎたばかりということもあり、店内は無人だった。


 二人は奥まったテーブル席に座り、メニューを開いた。


「エスプレッソを。ドッピオで」


「私はカプチーノを」


 沈黙の耳鳴りがし、何か話題を振ろうとしたところでふと気付いた。


 そういえば、自己紹介がまだだった。

 靄に包まれた彼女の片鱗を拝むにはひとまず名前からだ。

 手順を間違えば彼女が逃げてしまうかもしれない。


 イアンはテーブルの上に手を差し出した。


「私はイアン・グウィン。アメリカのロサンゼルスに住んでいる。休戦中に旅行しておこうと思ってね」


「へぇ、旅行ですか。私はオリガ・ガヴリーロシュナ・アスラノヴァと申します。ロシアのモスクワに住んでいましたが、一年前に移住してきました」


 イアンとオリガは固い握手を交わした。

 敵国と和解でもするかのように。


「ロシア人の名前は長くて面白いな。オリガでいいか?」


「はい、ミスター・グウィン」


「イアンでいい。ミスターをつけられるのは嫌いだ。年を取ったような気がしていけない」


「ですが、大人になったらミスターをつけられるものでしょう? 初対面でミスターをつけないなんて失礼ではありませんか?」


「私がアメリカ陸軍の兵士だった頃はミスターなんてつけられたことはない。名前さえつけられず階級で呼ばれることもあった。私にとってミスターをつけるかつけないかなんて些細な問題だ」


「なるほど。では、イアン。一つお尋ねしてもよろしいですか?」


「どうぞ」


「アメリカ陸軍を退役されたのはいつのお話ですか? 左目と右脚を失われているようですが……」


「ああ、一年前だ。ちょうどアメリカとロシアが休戦協定を結ぶ直前だ。マンハッタンの激闘で爆発に巻き込まれて、私は宙を舞った。言葉通りね。左目と右脚を失ったくらいで済んだのは実に運がよかった。死んでいてもおかしくなかった。いや、生きている方がおかしいんだ。何故生きているのかは私にもわからない。運がよかった、もしくは運が悪かったのさ」


 残念ながらオリガの表情は読み取れなかった。

 敵国の兵士が一人減ったことをほくそ笑んでいたのかもしれないし、悲しみに歪んでいたのかもしれない。

 覆面の下の表情は想像に委ねるしかなかった。


「もう一つお尋ねしてもよろしいですか?」


「どうぞ」


「どうしてシチリア島に旅行しようと思われたのですか? 何か理由がおあり?」


「いや、深い理由はない。ただ、三年前にデトロイトで戦死した親友の故郷がシチリア島だったのを思い出して。一度は行ってみたいと思っていたんだ。すっかり忘れていたがね」


 イアンは煙草を咥えてオリガにも一本勧めたが、彼女は首を横に振った。

「なるほど、マフラーをぐるぐる巻きにしていたら吸えないな」とジョークを言っても彼女は笑わなかった。

 もしかしたら、マフラーの下では笑っていたのかもしれないが。


「今度は私から尋ねさせてもらおう。年はいくつかな? レディーに年を尋ねるのは失礼かもしれないが、全く想像もつかないのでね」


「秘密でございます。ふふふっ、この格好にはちゃんと理由がありますのよ。ご無礼をお許しください」


「とんでもない。別に無礼だとは思っていないよ。ただ、少し気になってね。それはそうと、もう一つ尋ねさせてくれ。家族はモスクワにいるのか?」


 すると、オリガは家族という言葉に反応して俯き加減になった。


「……家族は皆死にました。十年前、アメリカ軍に虐殺されたのです。父も母も幼い妹も、同情の余地なく殺されました。私は死に物狂いで逃げて生き延びたのです」


「アメリカ人が憎いか?」


「いいえ。アメリカ人もロシア人に殺されています。お互い様という表現は相応しくないですが、アメリカを憎いと思ったことはありません。私が憎いのは戦争そのものです。私の家族を殺したのはアメリカ人ではなく戦争です。兵士は平和のために戦っています。兵士に罪はありません」


「私の家族も戦争に殺された。親友も戦争に殺された。私の心も戦争に殺された。私は戦争で全てを失った。私も君と同じ意見だ」


「よかった。たまにひどい方がいらっしゃるのです。アメリカ人だからロシア人だからといっていがみ合うのは間違ってますわよね」


「全くだ。私たちの敵は共通しているというのに。私たちの敵は一つ――戦争だ」


 そんな話をしていると、ウェイトレスがエスプレッソとカプチーノを運んできた。

 サービスでラスクがついてきたので、イアンはチップを多めに渡した。


 名前、年齢、家族――手順はきちんと踏んだ。

 そろそろこんな格好をしている理由に触れてもいいはずだ。


 だが、それは憚られた。

 なんというか、怖いもの見たさの感覚に酷似していた。

 覆面の下に醜い容貌があるような気がしてじれったかった。

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