第一部2

 数は三人。


 二人の男が一人を壁際に追い詰めて何やら話している。

 うまく聞き取れなかったが、言葉の訛りからして二人の男はイタリア人のようである。


 追い詰められている一人はおかしな格好をしていた。


 つばの広い白い帽子、サングラス、カシミヤのワインレッドのマフラー。

 顔面は完全に覆い隠されて見えない。

 カーキのチェスターコートとレザーの手袋で肌も覆い隠されており、生物的な部分は一切露出していない。

 片手には傘を持っている。


 この人物の生物的な特徴といえば、帽子からはみ出した長い白髪くらいである。

 髪と華奢な体形からして、どうやら女のようだ。


 足音を忍ばせながら進むと、二人の男のうちの片方がナイフを突き出した。

 女はさらに後退って壁に背中を押しつけた。


 男たちの目的は金だろう。

 奇怪ではあるが貴婦人のごとき容姿を狙ってのことだろう。


 イアンは兵士時代の正義感が蘇るのを感じていた。


 家族を守りたいという正義感で兵士になり、数え切れないくらいの人間を殺してきた。

 敵の兵士とて人間だ。

 ましてや罪があるわけでもない。

 イアンはそんな人間を殺して自己満足に陥っていた。


 いわば正義感は暴力の免罪符だ。

 正義感で振るう暴力は罪ではない。

 人間を殺そうとも咎められない。

 たとえ戦場でなくとも、だ。


 イアンは歓喜した。

 暴力の免罪符を手にして、緑色の瞳をぎらつかせていた。

 戦場に帰ってきたような気がした。

 暴力の高揚感が歩みを速めた。


「おい」


 ナイフを持った男の振り向きざま、ウイスキーの空き瓶で脳天を思い切り殴りつける。

 男は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。


 もう片方の男が懐に手を入れたところに、すかさずウィルディ・ピストルの銃口を向ける。

 男がゆっくりと両手を挙げる。

 ボディーチェックをする素振りを見せて背後に回り込む。

 銃把で男の後頭部をたたく。

 先ほどの男と同じように石畳の上に沈む。


 もしこれが何かのショーだったら、観客はイアンの鮮やかな手並みに拍手喝采したことだろう。

 そして、彼はほろ酔い気分で歓声に応えたことだろう。


「平気か?」


 そう尋ねると、女は我に返ってお辞儀した。


「はい。助けていただいてありがとうございます。言葉が通じなくて困り果てていたところだったのです。お恥ずかしい話、イタリア語はさっぱりでして」


 マフラーで籠った瀟洒な声音。

 言葉にはイタリア語とはまた異なる訛りがある。


 イアンは頷き、ウィルディ・ピストルをトレンチコートに収めた。


「恐らく金を出せと言っていたのだろう」


「やはりそうですか。ナイフを突きつけられた時はどうしようかと思いました。実を言うと、お金をホテルに置き忘れていたのです。あなたが助けてくださらなければ殺されていたかもしれません。是非ともお礼をさせてください」


「礼ならいらない」


「いいえ、そういうわけにはいきません。なんでもいいので何かお礼をさせてください」


 イアンは思案した。


 礼なんていらない。

 そもそもこの女のために銃を抜いたわけではない。

 一瞬でも戦場にいる気分を味わえたのだ、それで十分だ。


 しかし、コーヒーの匂いを嗅ぐとちょうどいい礼を思いついた。


「そうだ、それならコーヒーを飲むのに付き合ってくれないか? これからカフェに立ち寄ろうと思っていたんだ」


「ですが、お金がありません。よろしければ後日また改めてお付き合いしますよ」


「いや、金なら私が払うつもりだよ。君はただ付き合ってくれたらいい」


「いけませんわ。それではお礼になりませんもの」


「いいんだよ。それが私の希望なのだから。どうなんだ、付き合ってくれるのか、付き合ってくれないのか?」


「……わかりました。お付き合いします。ですが、この近くのカフェはギャンブラーの溜まり場になっています。しつこくポーカーに誘われてゆっくりできません。少し離れたところに行き着けのカフェがありますけれど、そこにご案内してよろしいですか?」


「ああ、そうしてくれ。ポーカーは嫌いだ」


 イアンは女の後について路地裏から通りに出た。

 暖かい日向に足を踏み入れると、彼女は白い傘を差した。

 どうやらただの傘ではなく日傘のようだ。


 それにしても、ミステリアスな女だ。

 いや、ミステリアスを超えてエキセントリックと表現するべきかもしれない。


 こうも容姿を覆い隠されては興味を惹かれてしまう。

 兵士として生きてきて女とは無縁だったが、彼女にはどこか底知れぬ魅力があるように思われる。

 女とはなんたるか、彼女の不可視の容姿にこそその秘密があるのではないかという気がする。


 通りを歩いていると、二人は非常に目立った。


 左目に眼帯をつけて右脚に義脚をつけた、いかにもな退役軍人。

 肌の露出を一切許さない人間ならざる貴婦人。


 奇異の視線を浴びながら、ブーツの踵を鳴らして通りを闊歩する。

 ここまで注目されるとむしろ清々しい。


 イアンは胸を張って歩いた。

 戦場から帰ってきた兵士のように。


 正義のために人間を殺して何を恥じることがあろうか。

 正義のために暴力を振るって何を恥じることがあろうか。

 犠牲となった人間は平和のための生贄なのだ。

 その恩恵は可視化されている。

 現にここに救われた人間がいる。


 誰もイアンを糾弾しなかったが、彼は内心で釈明していた。

 罪悪感はなかった。

 逆に誇らしくもあった。

 ただ、誰かが悲しんでいるような気がしたのだ。

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